店は今、三国時代を迎えようとしていた。
ごく普通の、子供がいる夫婦が家を抱える住宅街に、その店はある。敷地と比べてやや小振りな建物、一階は喫茶店。外装は白レンガ風、前の道路を通ると甘く柔らかい匂いが漂ってくる。ドアの横には黒板のスタンドが立っていて、今日のお勧めがチョークで書いてある。全部ケーキの名前だ。
看板にある名前は『famille』。最寄駅側にあるショッピングモール内で流行る喫茶店の、本店だった。
時刻はもう夕方を過ぎている。丁度街灯がつき始めた頃合で、住宅街のど真ん中にあるfamilel本店は、ブリックモール店より早めの終業を迎えている時間帯だった。
大きなガラス窓の向こう側、店内の明かりが落ちているのを目に留めながら、仁は帰路の足を速めた。
「やばい、また遅くなった」
若干二十三歳、大学を卒業して一年目の仁は二店舗を抱えるファミーユのオーナーである。自分では頑丈になったと思っている身体は、男性的にはちょっと細め。優男という訳でもないが、何処となく頼りない、或いは繊細そうな顔付きをしている。普段は本店に詰めている仁は、今日はブリックモール店に出張していた。
二号店へ出向くのは毎週火、木、土曜日と決まっている。理由は簡単、特定の軽食メニューの為だ。かつてはレギュラーメニューだった三品を日替わりメニューにした。カルボナーラと半熟オムライス、あと卵サンド。卵の扱いにおいては天才的、と天才的パティシエールに太鼓判を押される仁である。これらを作るのは彼を差し置いていない。
今日は土曜日だった。ますますケーキ専門となったブリックモール店であるが、休日となれば軽食の需要も多い。仁が帰宅時間を遅らせてしまうものしょうがないというものだった。
(問題は、そう信じてくれないことだよなあ)
嬉しげに溜息をついて、仁はドアを開ける。高過ぎず重過ぎず、ベルがなる。
押さえられた灯りの下で、煌く笑顔が振りかえった。黒いリボンと細やかな金髪が揺れる。
「お帰りなさいませ、旦那様?」
「あ、ああ。ただいま、玲愛」
おおよそ日本人離れした風貌。金の髪を二つに纏めて、メイドよりカフェテリアの店員に近い、ファミーユの制服を纏った彼女、玲愛がにっこりと微笑んでいた。
ハーフと聞くと、この島国の趣向からはちょっとバタ臭い顔付きを連想するが、玲愛は程よく日本人的な掘りをしている。仁から見れば美人で、贔屓目を覗いても美人だった。勿論御客様からも好評なファミーユ本店の二大看板。
客を充分魅了する笑顔。そこにちょっとした凄みを感じるのは、仁の気のせいか。
「随分遅いお帰りねぇ」
「今日はほら、半熟オムライスの日じゃんか。結構出るって知ってるだろ?」
「ふぅん。人気で結構。で、本当は由飛達に引き止められてたんじゃないの?」
語尾の疑問系は形式的。鋭いというかしつこいというか。仁は勢い良く頭を振る。
「そんなことないぞ。ない。別に」
「別に? なによ。なんで言うの止めるのよ」
「あ……」
墓穴を掘りたがる癖がでた。『実は由飛とか明日香にせがまれて、半熟オムライスを振るまってお喋りしてた』
と素直にいうと多分むくれる。未だに由飛を警戒する節がある玲愛だ。半眼になりつつ頬を膨らませた姿が手に取るようだ。
「あー、いやほら。経営方針をちょっと、かすりさんと」
ちなみにブリックモール本店の店長はかすりだった。ちなみにフロアチーフは由飛。職場の良心が明日香。
仁にとっては不安にもなる。明日香ちゃんだけでは荷が勝ち過ぎるかもしれない。上手くいくのは解っているが、放って置くと何処か怖い。多分玲愛も同じ意見だろう。いい訳には多少説得力があった。
尤も最後まで口に出来なかった。
「――旦那様?」
「あ」
「……」
甘酸っぱく掠れる声が、玲愛の後から不機嫌そうに響いた。
(今日も嵐の予感がする)
玲愛も眦を細めて腕を組んだ。所謂戦闘態勢だ。
「た、ただいま。里伽子」
「おかえり、仁。……花鳥さん、職場で公私混同はやめて。しかもそれ、キュリオのマニュアルでしょう」
奥でテーブルを拭いていたのか、台布巾を握り締めた里伽子がやっぱり腕を組んでいた。横目を向けている辺り、同じく臨戦の構えだ。
「違うわよ。キュリオは『お帰りなさい、ご主人様』だもの。旦那様なんて言わないわ。私が仁にだけ言うだけよ」
うわあ。玄関で立ったままの仁の正直な感想だった。二人きりなら喜ぶところ、けれど三人なら凍るシーンだ。なんといっても里伽子の瞼が引き攣ってる。
「公私混同には違いない。やめて。元祖チーフの命令」
元祖って何だ。仁は心中でだけつっこんだ。口には出せない。玲愛の眦が剣呑に細まったからだ。
「そうね……だったら職場で『仁』って呼び捨てにするのもやめないとね。あ、これ真チーフの命令だから」
最後に笑顔を付け足す辺り本気だと仁は思った。というか真チーフってなんだろう。
「……っ、自分だって仁って呼び捨てにしてたでしょう」
「むっ。だからやめるって言ってるじゃない。ルールにはお互い従いましょうってしてるだけよ」
「大体他の店と紛らわしい挨拶するのは良くない。閉店したからって外に聞こえたら、それこそパクリだと思われる」
「ファミーユはパクリなんかじゃない。私だってよく知ってる。ちゃんと独自の路線を常に出しているんだから、問題ないもの」
お互い両腕を組み、やや斜に構え、目付きは鋭く、唇は固く結んでいる。美人は怒ると怖い。二人いれば迫力が、ニ倍ではなくニ乗になる。更には、『仁に厳しい人ランキング』でワンツーフィニッシュどころではなく、同着1位同士である。
いかん。始まるかもしれない。止めないととばっちりが怖すぎる。仁は技とらしく両手を上げて、
「と、ともかく二人ともご苦労様。いやー店長不在で店を問題なく営業出来るのは玲愛と里伽子の」
「今取り込み中なの。店長は静かにして」
「店長は黙ってて。大事な話し合いなのっ」
「……はい」
一瞥もされなかった。
にしても、玲愛が『パクリなんかじゃない』って断言してくれるんだものな。この二年の歩みを思い出して、仁は店内を見渡した。
始めは時計ぐらいはアンティークで、と思っていた内装は、ばっちりアンティーク調に整っていた。一つ一つが個性と歴史を持っていて、同じ家具はない。けどテーブルや椅子は似た形状、統一感を持っていて、寄せ集めの素人臭さはない。
住宅街にある本店は、当初経営コンセプトが荒れに荒れた。多売薄利を貫いたブリックモール店とは全く異なる方針が必要なのは自明だった。ならかつての隠れ家として、居心地が良く、顧客に長い時間過ごしてもらう空間に――というのは共通した認識だったのだが。
『仁。あのさ、私も本店、また手伝っても良いかな?』
『え――り、里伽子?』
『……やっぱり駄目、かな』
『そ、そんなことある筈ないだろ! ファミーユは俺と姉さんと里伽子で作ったんだ。また本店やるのに、里伽子がいてくれたら助かる』
『そっか……うん、ありがと』
恐らくは宿命だった。嬉しさのあまり、仁は頭が回らなかったのだ。
ぶつからない訳がなかったのだ。
天下に王は二人要らぬ。ファミーユにチーフは二人いらない。
『やっぱりアンティーク調にするのは同意。でも本物をいれる必要はない』
『でも居心地のよい空間なんでしょ、テーマは。だったら内装にお金惜しむのは間違いよ』
『なにも本物である必要はないって言ってるの』
『物は良くないと駄目じゃない。身近に本格的な店があるってのが強みにしなきゃ』
調度の程度から始まり、
『持ち帰りより、店で食べてもらわないと持たないわ。だからいっそオーダー制、注文受けてから作るとか、材料費の圧縮を図らないと駄目じゃない?』
『むしろテイクアウトを充実させた方が。数は多く見込めない。けどほんの少し、気まぐれにすぐ来れる立地を利用して』
『だからブリックモールみたいにはならないっての!』
『恵麻さんのカントリー風じゃ、オーダーから作ってたんじゃ割に合わないっ。どうせおっきく作るんだから』
『あのー……作る人の意見はー……?』
ケーキの販売については勿論のこと、
『ケーキにより特化、これは譲れない。軽食はこの際切り捨てて、お茶を強化する。恵麻さんが注文を受けて作っている間、ゆっくり店内で休んでもらうの』
『んー。そう、ね。ご飯を食べるのって、やっぱり外出だものね。ケーキをブリックモールより上等にして、差別化をはかって……、逆にケーキだけを買いに本店へってとこまでならないと』
『ん、そう。だから完全に専門店化』
『……なあ、店長の役目は?』
『仁はコーヒー淹れていれば良い。あと卵』
『カスタードとか、卵混ぜていれば良いのよ、仁は』
『卵を馬鹿にすんなー!』
店長の権限と役割に関してだけは、素早く同意していた。
そして本店、ニ号店と差別化したファミーユは、新体制がようやっと軌道に乗り始めている。
仁は目を意識的に細めて、遠くを見ていた。懐かしく、苦しく。そして愛しい時間へ思いを馳せる。けどそろそろ限界だった。
「むっ――」
「……っ」
(だって隣で元祖と真が、まだにらみ合いしているんだものなー……)
無言が肌に痛くなってきた。胃まで達しそうだ。そろそろ第三者の救いの手を期待したい。切実だった。あ、胃に来た。胃潰瘍は五秒で出来る。
店の奥から流れていた水音が丁度止んだ。
「あ、仁く〜ん、おかえりー」
ひょっこりと、パティシエ姿の姉が顔を出して来た。嬉しそうに手を振っている。キッチンの掃除が今終わったのだろう。仁は姉が天使に見えた。今だけ。
むっと玲愛と里伽子が首を同時に巡らせる。
「皆元気にしてたー……って、なに? どうかした? なんか玲愛ちゃんとリカちゃん、怖いんだけど……」
「なんでもありません」
「うん、恵麻さんは気にしないで」
困った風に首を傾げる恵麻。相変わらず空気を緩ませる人だった。玲愛も里伽子も微妙に眉を寄せる。喉を鳴らして、けど「仁と呼ぶな」とは口にしなかった。
勿論無駄と解っているからである。ファミーユ本店の弛緩材、それがまー姉だと仁は思っていた。
「そう? じゃ、やっとミーティングかな? ちょうどケーキが焼きあがるから」
「って掃除してたんじゃないのかよ、姉さん」
「だって、疲れたんだもの」
「……微妙に会話が噛合ってないわね」
「ふぅ」
部下がいない二人のチーフが苦笑しあった。
「で、なんで遅くなったのか聞かないとね、仁に」
「そーそー。最近返ってくる時刻が遅くなる一方だし」
「憶えてたのかよぅ」
さてミーティングが終わって、流れで続いたお茶会が終わって。掃除も一段落した店内には誰もいない。とは彼女たちの性格からは考えにくかった。
パティシエは途中からワインを呑んでいたのもあり、眠そうに二階へと上がっていった。気がつけば自分の部屋を確保していた恵麻である。卵店長は経理でもするのだろう。自室に帳簿を持っていっていた。
「……帰らないの?」
「早くに帰宅しても、することないし。気になる事もあるし」
「ふーん。それって、何?」
「……別に」
何となくを装って、真と元祖は三席しかないカウンターに座って、そっぽを向いている。当然とばかりに二人の間には一人分のスペースが開いていた。
玲愛は肘をついて、里伽子は両手を重ねてぽつりぽつりと話しながら、実のところ牽制し合っていた。
そう、仁は帳簿をつけている。
店にとって現状の把握、今後の戦略、店のローン支払い等非常に大事な事項を決めるには、毎日確認しないといけない物だ。
これは推測と呼ぶには不確定要素が少な過ぎて、殆ど確定である。どうせ仁一人では時間がかかる。何処か間が抜けた判断をするかもしれない。ついでに言うと見通しが甘いかも。こと数字については当てにならない。
――という大義名目の元、「ちょっと貸してみなさい?」或いは「しょうがないなぁ」という台詞を用意しあっているのである。お呼びがかかるのを待っているのでもあり、こちらから仁の部屋をノックするタイミングを計っているのでもある。
だが「どれどれ?」と、仁と一緒にモニターを覗くのは一人でいい。それでいい。
結局二人して一時間半ほど時間を潰していた。多分そろそろ根を上げてもいい頃だ、店長が。口にはだしていないが、玲愛も里伽子も同じく見積り計算だった。
「コーヒー、いれよっか」
「あ、じゃあ私が」
「いいっていいって。ここ、私の家だしさ」
ぴくりと里伽子の目の端が引き攣る。しかしすぐ会釈を浮かべてカバー。
「でも花鳥さんのコーヒーの淹れ方、ちょっと違うし。仁にも持っていくんだったら、ずっと慣れている私のほうがいい」
『ずっと』というニュアンスに玲愛のこめかみに青筋。やはりにっこり笑って隠してみる。真と元祖はお互い立って顔を見合わせてみた。外見上だけはにこやかだ。
コーヒーを淹れるという単語から次の行動(仁に挿し入れる、一緒に帳簿を確認)を予測し合って、一歩も譲らないあたり無駄に頭の回転が速い。一事が万事この調子だ。いい棋士になる才能があるかもしれない。
結局二人してコーヒーを淹れた。マンパワーが過剰だった。戦力バランスも釣り合っているので、カップに注いだのは彼女達の分だけだ。自分用のマグカップを使うあたり、テリトリーの主張が激しい。
ちなみに赤い地のが玲愛ので、真っ白で素っ気無いのが里伽子のだった。
「はい、どうぞ」
「ん、ありがと」
玲愛が両手に持ったマグカップの片方を差し出した。里伽子は左手でちょっと不器用そうに受け取った。
「ふーん……」
「……何?」
カップを両手で押さえながら座る玲愛が、納得した風に可愛らしく唸った。逆に里伽子は微かな不愉快さで応じた。
「前から気になってたんだけど。左手、良くなってきてるの? あ、嫌味とかじゃなくて」
さりげない様子だったが、一瞬里伽子の肩が固くなった。それから観念したように、
「やっぱり、花鳥さんは気付くか」
「気付かない方がおかしいわよ。仁はさ、鈍いからアレだけどね」
「そ。致命的に鈍い」
『良くなった』とは、以前から察知していたから出てくる言葉だ。
玲愛はマグカップをお盆に載せているのではなくて、握りを譲り合う形で渡した。案外スムーズには受け取り難いもので、誤魔化しは利かない。
里伽子はすっと右手で左手首に触れた。
「うん、でも大丈夫。仕事には差し支えない」
「判ってる。貴方ほど仕事出来る人、そうそういないもの。それはわかってるんだけど、さ」
彼女にしては珍しく言葉を濁して、両手を組んで小首を傾げた。
「ちょっと不思議だったのよね。本店構えてから、バイト入ってくれたのが。仁からは貴方のこと、前々から聞いてたから余計。だって表だって手助けするならブリックモールの時からするんじゃないかなーって」
「その時は……就職活動があったから」
「じゃあ今は、どうして? 勘違いしないでね。単純に疑問なだけ」
慌てて両手を振る玲愛に、里伽子は微かに顔を背けた。
「別に……仕事決まらなくって時間があるから。負い目、あったし」
「その腕のせいなの?」
「……」
嘆息。躊躇なしに斬り込む彼女を煙に巻くのは諦めたのか。肯定の響きがあった。
「ねぇ、もしかしてブリックモール店手伝えなかったのも?」
今度は苛立ちが混ざった溜息を、口に運んだコーヒーの湯気が包んだ。
ここまで。理由は言うつもり、ない。
硬くなった態度が拒絶を示していた。けれど、足音は止まずにノックまでしてくる。
「――なんで仁に素直に言わなかったのよ? アイツ、心配してるわよ? ウチ手伝ってくれるのは凄い助かるって。でも将来とか大丈夫かって――」
「言える訳、ない」
「え?」
押さえられた声音が剃刀みたいに、玲愛の言葉を刈り取った。
里伽子は舌打しそうな表情になる。玲愛を見ようとせずに、
「仁に、言える訳ない……。私は」
黒ずんだコーヒーの水面に目を落としながら呟いて、
「頼られないと。頼られる私じゃないと、ここに居られない」
きつい眦で顔を上げた。
「花鳥さんみたいに、情けないところ仁に見せられないもの」
「あ、あの時は――! その、貴方が仕組んだんでしょーがっ!」
「知らない。情けなかったのは事実」
「くぅ〜っ」
事実なので返せない。なにせ眠れなかった程情緒不安定になったのだから。
里伽子が切なげに唇の端を上げた。
「羨ましいかも」
「どうしてよ……あれ、今考えても腹立つんだから」
「だって、私にはできない。弱い私なんて、意味ないから」
コーヒーに口をつけず、玲愛は彼女の横顔を見詰めた。日頃仕事を取り合っては、言い合う好敵手が一回り小さく思えてしまう。
今度は玲愛が溜息をついた。
「ま、仁が気付かなかったのが一番悪いんだけどね」
「恵麻さんだったら、わかったんだろうけど」
「家族マニアだからね、仁」
それっきり会話が途絶えた。どちらかの唇がコーヒーに触れる音しかしなくなる。時刻はもう十一時を過ぎていた。
ことりと、マグカップがカウンターに置かれる。
「あぁ〜〜、もう!」
どごんと勢いよくカップが叩き置かれる。コーヒーの黒い飛沫がぱっと跳ねた。里伽子が目をぱちくりさせて、いきなり立ちあがった玲愛を仰いだ。
「言っちゃえば良かったのよ! 腕痛めた理由はわかんないけど、仁に打ち明ければ」
「だから、言えない――」
「そりゃアイツ頼りないし、情けないし、優柔不断だし。天然女たらしっぽいし。でもやる時はやるじゃない。どうして頼れないのよ」
「――っ、知らないからいい加減なこと言える……!」
立ちあがった拍子に椅子が倒れた。暗い店内に硬く響き渡る。玲愛も一歩も引かなかった。むしろ、仇と出会ったような目付きで相手を睨んでいる。
「腕のことを仁が聞いたら、きっと駄目になる。終わっちゃうのよ。だから直るまで私は!」
「だから、どうしてアイツが潰れるって決めつけちゃうのよ。信じられないの、仁が」
「怖かったの!」
「っ!」
「……はぁ」
先に目を背けたのは里伽子の方だった。玲愛は変わらず肩を怒らせたままだ。
「花鳥さんには関係ない。仁と私の問題」
「関係、あるのも」
「……?」
一転してトーンが低くなった玲愛に、里伽子が眉を顰めた。玲愛は唇を尖らせて、
「なんかさ、上手く言えないけど。すっきりしないじゃない」
「どうして」
「んー。解ったら、苦労しないわよ……」
「何、それ」
本気で首を捻っている玲愛。里伽子は苦笑してしまった。
多分、そういう人なのだろうと里伽子は思う。
彼女は私に逃げていると言い、私からすれば、彼女には弱いところが目に付く。
結局のところ、今ごろ二階で表計算ソフトの数字を眺めては、頭を抱えているあいつに辿り付くのだろう。
解りきっていた事だが、今日ばかりはなんとなく癪だった。
「要は」
里伽子はぴんと指を立てて、教師に似た素振りで振ってみた。
「ライバルってこと?」
「え? うーん。そうなのかなぁ。そりゃあ真と元祖だしぃ」
柳眉を八の字にして「そうなの?」と視線で聞いてくる。里伽子は「そっか」と頷いて、
「じゃ――」
と、その時だった。
『仁くーん』
『おわぁっ、何入って来てるんだよまーねーちゃん!?』
やたら高く篭もった声が響いてきた。「あぁ!?」と玲愛と里伽子は若干柄が悪く、一斉に店内の奥、住居スペースへと目を向ける。
『ねー背中流してあげよっかー。たまには水入らずでぇー』
『ちょ、ちょっとちょっとちょっと! 悪酔いしてるだろうわ酒臭! 部屋に帰ってまだ呑んで――』
『つべこべ言わずに、湯船から出てこーい』
『いや――!? 助け、本気、脱ぐな――――!?』
「ちょ、ちょっとぉ! 何してんのよ仁!?」
顔を真っ赤にして、ツインテールが逆立った。怒りが静電気でも巻き起こしたのだろうか。一方里伽子は不可思議だと渋面して、腕を組んでいる。
「おかしい。恵麻さんがあからさまにリミッター外すなんて……」
「自分が仁の初恋の相手だって解ったからってぇぇえ!」
「待って」
がしりと里伽子が玲愛の肩を掴んだ。
「まさか」
「う。その、ほらお酒の席でさ、仁から聞き出してその、雑談の時に口を滑らせたっていうか〜?」
「言っちゃったのぉ!?」
冷静沈着且つポーカーフェイスが売り物たるイメージに反する、すっとんきょうな叫び声。
「あは、はは、は――拙かった?」
「ちっ」
里伽子は親指の爪を噛んで、
「眠れる虎が目を覚ました……?」
「……いや、前から起きてた気が。むしろさかったっていうか?」
がぼがぼと風呂場が騒がしい。まだ仁は抵抗しているようだったが、
『もう〜。じゃ、お姉ちゃんも一緒に浸かるーー』
『待て、目を覚ませ早まるなまー姉ちゃん!?』
ぶち。
「なんですってぇえぇ! 仁、いい加減にぃ!」
玲愛の我慢ゲージをあっさり振り切った。カウンターを一足で飛び越える。スカートが翻って、でも下着が覗ける間もなく加速、紅い布を垂らされた猛牛の如く駆け出していった。
「そういうのは、貴方のキャラの仕事」
思考の姿勢を保っていた里伽子は軽く玲愛の背中に手を振ると、深く頷いた。
「……仕掛けるか」
玲愛には不穏に響く筈の声は、仁の絶叫に掻き消されてしまった。
風呂場の惨劇事件から数日が経った朝のことだった。
「じゃ、朝のミーティング終わります。今日も頑張って」
「仁」
以前のやり取りを無視して、あっさり名前を呼ぶ里伽子。玲愛がほんの少しむっとする。忘れたわけじゃないものね、と。
「何かあるのか? 里伽子」
「あるというか、労使交渉。最近帰宅が遅くなって困る。だから仮眠室が欲しいの」
「仮眠室?」
「そう。仁の家、空き部屋あるでしょう?」
「そりゃあまあ」
あることはある。2階は四室あって、仁・玲愛・恵麻と使用していた。最後の一人は既成事実的不法占拠である気がするが。
仁は頭を掻いて、うーんと唸った。
「確かに、長いこと残業してもらっているしなあ。でも仮眠室となると泊りになるわけで」
「労働基準法第――」
「解った」
弱みがある仁である。更に相手は里伽子だった。
「あー、それで良いかな、玲愛。それと恵麻姉さん……は聞いてないな」
日常の光景である。恵麻が朝に寝ながら立っているのは。
玲愛も「うーん」と腕を組んではいるが、共同経営者としては労使との争いは避けたい。というか早く帰ってくれても良いんだけど、とも言えない。残っていてくれた方が仕事ははかどるのは事実だ。
「いいんじゃない? 仮眠室ぐらいなら」
「ん、じゃあそういうことだから」
ぴんぽーんと、タイミング良く呼び鈴が鳴った。
「あ、来た」
里伽子がさっさと動いて、まだ「Closed」と架ったドアを開ける。
「ちわー、ク○ネコ○マトっす。荷物お届けに参りましたーー」
「……荷物って何よ?」
てきぱきと判子を押している里伽子の傍で玲愛が呟いて、店の外を覗いてみた。大型の配達車から配達員が二人がかりで、洋服ダンス二つ分の長方形を降ろしている。チャックがついた布で覆われていた。
「あれってさ」
嫌な予感。予感と言うより確信。仁が続いた。
「独身用の引越しパックじゃなかったっけ? 俺越してくる時使ったんだけど」
「そんなの解ってるわよっ」
「そう」
あっけらかんとした返事に、仁と玲愛は振りかえった。
「仮眠室の調度揃えてもらうの、気が引けるし。でも自分で揃えるには予算が大き過ぎる。仮眠室できるならあまり自宅に帰らないから、持って来た」
「も、持ってきたってそれは!」
「……引越しって言うんじゃないか? 里伽子」
目をまんまるにして、更にしばたかせる玲愛達は呆れ顔だった。里伽子は素知らぬ顔で訂正する。
「……下宿?」
「ちょ、ちょっと!? 聞いてないわよそれ!」
「今言ったし」
「それは仮眠室でしょ!」
「実質下宿になるし」
「――あの、里伽子、さん?」
里伽子は深々とファミーユ本店の経営者二人に頭を下げて、
「宜しくね」
玲愛だけには見えた。というか里伽子は見せていた。
茶目っ気たっぷりに舌をぺろりと出しているのを。
「じゃ、仕事の前に荷物、入れるだけ入れちゃうから。あ、こっちですから」
ぽかんとする仁を置いて、荷物の方に走って行った。
「ふ」
呆然としているのは、もう仁だけだった。
「ふ、ふふ。そう言うこと? つまり――」
宣戦布告ってことよね?
確か、彼女は『勝てる勝負しかしない』と公言していた。
「ああ、そう。そう来るんだぁ?」
「……あの、玲愛、さん?」
隣で仁が脅える程度には、玲愛はオーラを背負っている。雷が落ちたり、熱そうな炎が燃え盛る質の恐ろしい気配を。
引きつっていた白い頬が、がーっと気勢を上げた。
「上等じゃない! 左手の指輪が伊達じゃないって教えてやるわっ!」
ぐわりと左の拳が持ち上げられる。婚約指輪のシルバーが、意気盛んな火の海を映している錯覚に仁は囚われた。
怖い。すこぶる恐い。
「な、何がなんだか……どういうことなんだ、これ? なあ玲愛?」
「うっさい、元はといえばアンタが情けなくて頼りなくて優柔不断で鈍感で、そのくせ天然女たらしだからでしょうがあぁあぁぁあ!」
「ぶほわっ!?」
晴れやかな青空に怒声が響き渡る。ついでに嵌められた憤りが鉄拳となった。「うーん?」と恵麻が微かに目を開けた。が、また閉じた。
今日もファミーユ本店は活力一杯だった。けれど平和は遥か遠かった。
仁の理想だった店は今、三国時代を迎えようとしていた。
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