色々なことが起こり、様々なものがその装いを変えた冬。振り返ってみれば息つく間もない程にあっという間で、ならばそれに続いて訪れた慌しい春は真実一瞬であったのだろう。
草芽吹き、街吹く風に僅か桜の香りが混ざっていた日々も既に昨日。季節は時間という歯車に巻き込まれ、唯々諾々とその姿を変えていく。桜散り、空霞次第に薄れ、長く続いた雨の日もついこの間終わりを告げた。陽気はそろそろ汗ばむようで、不意に顔を上げたなら、そこには広く深く、まるで落ちて行けそうなほどに容赦なく青い、息を飲むような空が広がっている。
季節は、もうすぐ、夏を迎えようとしていた。
目が覚めると、甘く柔らかい香りが鼻腔を擽った。耳に届くのはフライパンの中で油が跳ねる音。もう散々耳にして、けれど一向に飽きることなく、またこれからも飽きることなど無いだろうと自然に信じさせうる不思議な要素。
けれど、と彼女はベッドに寝転んだまま少しだけ不満を覚える。その香りもその音も、決して不快ではないし、どちらかと言えば好ましくはあるのだけれど、それでも寝起きの自分にしてみれば十分以上に拷問だ。まだ意識には靄が掛かっていると言うのに、先ほどから胃が空腹を訴えて仕方が無い。
素直に起きてしまえばいいのだろうけれど、それは彼女自身のプライドが許さなかった。いいにおいに釣られて眼が覚めるだなんて、まるで子供ではないか。……仁の卵料理にそれだけの魅力があるのは認めるが、だからと言って素直に起きる気にはならない。どうせ眠気ももうじき消えるのだ。ならばそれまでの間、このまままどろんでいるとしよう。
そう決意した彼女は、それでも意識せずに枕もとの時計へと目を向ける。文字盤が示した時刻はまだ朝の六時前。早朝と称しても問題の無い時間だが、日課を考えればとりわけ早い訳でもない。日も長くなったこの季節、部屋の中には十分な光が差し込んでいる。
ん、と彼女は呻きながらベッドの中で小さく動き、頭の向きを変える。布団代わりのタオルケットを胸元に抱き寄せ、夏の朝日に照らされる部屋の中を順繰りに見回した。テレビ、テーブル、パソコンラック。典型的な一人暮らしの部屋の風景。そしてキッチンでやけに入念に、しかしいつもの如く楽しそうにフライパンを操るこの部屋の主、高村仁のその姿が見える。
「……」
放っておけば鼻歌でも歌いだしそうな仁の背中を眺め、彼女、夏海里伽子は息を吐いた。嘆息。昨夜は遅くまでファミーユの業務会計処理を続け、その後更にベッドの中で二人色々としたと言うのに、楽しそうに朝食を作る仁の背中には疲労の陰などまるで無い。この底なしめ。仁のくせに。里伽子は自分が理不尽だなどと欠片も思わず、ごく自然に胸の内でそんな悪態をつく。ごろりと再度ベッドの上を転がり、シーツの端を握り締めた。
そのまま、ふぅ、息を吐く。
かちり、と時計の針が動き、二つの針が盤の上で一直線に並んだ。六時。そろそろいつも起きる時間で、それはつまり、仁がそろそろ起こしに来てくれる時間でもあるということ。
油の跳ねる音が止んだ。フライパンの中にあった卵は、きっと蕩けるような舌触りのオムレツに成っているだろう。仁が食器の用意する音が聞こえ、それが終わり、やがてゆっくりとこちらへ、ベッドへと近づいてくる足音に代わる。
里伽子は己が微笑んでいることを知らぬまま、寝たふりを続けようと思い目を閉じた。
「おい、里伽子。朝だぞ。そろそろ起きろ」
ベッドの傍で足音が止まり、仁の声が降ってくる。
「里伽子? まだ寝てるのか? おーい」
まだ眠っているのが不思議だと言外に含んだその言葉を無視し、里伽子は更に寝たふりを続ける。ごろりとわざとらしく寝返りを打ってみせる。
「……お前、起きてるだろ」
仰向けになったのだから、こちらの顔は丸見えだ。一昔前ならいざ知らず、いまの仁ならばその程度のこと簡単に見抜いてくれるだろう。
けれど、それでも里伽子は応えない。
「おーい、里ー伽ー子ー」
困ったような、呆れたような仁の声。その中に早くも諦めが滲んでいるような気がして、里伽子は我知らずほくそ笑む。
仁だって、分かっているはずなのだ。何度も繰り返した朝の風景。これはその焼き増しで、同時にこれから何度も続けていくそれのネガなのだから。
だから、里伽子は待っている。ねだっている。酷く裏切られ、酷い裏切りをして、それでも驚くほどに色々なことを経た上で全てを背負い、背負わせる誓いをした伴侶のそれを、心の底から待っている。
「……ええい、この我侭娘」
「知ってる」
片目を開けて、里伽子は応えた。
「だから、早くして」
「ぅ」
呻いて顔を顰める仁をよそに、里伽子は再び瞳を閉じる。訪れた薄い闇。その向こう側に、毎度の如く、苦悶するような躊躇うような仁の気配を感じる。
まったく、と彼女は胸の内で苦笑。夜はあんなに積極的なのに、いや夜でなくても、雰囲気がそうなると結構見境無しなのに、毎朝の恒例となりつつあるこれにはまったく慣れる様子が無い。純情なのか、単純なのか。鈍感ではあると思うけれど、その二つに関しては正直な話、判断に困る。
はぁ、と聞こえたのは仁の嘆息。それは合図であり、印。結構恥ずかしいんだぞ、というぼやきは照れ隠しだ。
そっと唇に何かが触れ、離れた。確認する必要なんてまるで無く、そもそも慣れすぎていて、それでも少しでも長い間そうして欲しいと思うもの。おそらくは幸せの象徴で、多分、これからもずっと続いていくものの兆し。
里伽子は目を開けた。
仏頂面で、けれど頬を僅かに赤らめた仁の顔が其処に在る。
「おはよう、仁」
「……おはよう」
声を掛ければ、どもったような声が返ってきた。
くすり、と里伽子は隠さずに笑う。仁の渋面が更に歪んだような気がしたが、気にしない。
「やっぱり仁の目覚ましは強力だね。あたし、これならすぐに起きられるよ」
「くそぅ。ぬけぬけと」
なにやらぼやく仁だが、それは自業自得だ。なにせこの目覚ましを最初に提案したのは、目の前に居る仁なのだから。
けれど、と里伽子は胸の内で呟く。そろそろ勘弁してあげるとしよう。今日は水曜日。ファミーユは休みで、そういう意味でならもう少しじゃれていても問題は無いのだけれど、水曜日はあくまで平日だ。先日復学したばかりの仁は大学の講義があるし、自分もそう。午後の一コマだけではあるけれど、午前中は病院に行って左腕の経過を見なければならない。その後はリハビリだって待っている。そろそろ卒論のテーマの選考もしなければならない。やるべきことは意外と雑多だ。
だから、そろそろ真面目に起きるとしよう。時間はまだまだあるけれど、それに甘えていたら何時までもこうして居たくなってしまうから。その予感は、既に何度も身に覚えたものだから。
里伽子は身体を起こす。寝起きのだるさは既に何処にも感じられない。顔を顰めていた仁は、ごく自然に箪笥から里伽子の着替えを取り出した。この部屋は本来仁のものではあるが、それに関しては今更だろう。昨夜のように里伽子がこの部屋に泊まることも多ければ、逆に仁が里伽子の部屋に泊まることも少なくない。割合で考えればほぼ半々で、一方が他方の部屋に泊まらぬ日などそれこそ皆無だ。
「今日はこれでいいか?」
「うん。構わない」
差し出された服を見て、里伽子は頷いた。淡い色合いのワンピースとカーデガン。ベッドの脇に脱いだままだった下着を拾ってもらい、手早く身につける。仁に手伝ってもらいながら服を着て、洗面所で顔を洗って戻った頃にはテーブルの上に食事の用意がされていた。トーストとオムレツをメインに据えた、典型的な洋風朝食。
席に着き、いただきます、と二人で言ってから向かい合って食事を始める。既にマーガリンの塗られていたトーストを齧っていると、やがて仁のほうから声を掛けてきた。
「今日の予定は?」
「いつも通り」
「……ちゃんと行けよ? 病院」
「先週の講義をサボった仁に言われたくない」
里伽子の台詞に、う、と仁が僅かに呻いた。
はぁ、と里伽子は息を吐く。その内訳は、多分、呆れと愛情が半分ずつ。
「かすりさんに聞いたよ。図書館、行ってたんだって?」
「……えーっと」
仁は言葉を濁すが、あからさまに逸らされた視線はその答えを示して止まない。
だから里伽子は容赦せず、何度繰り返したか分からぬ言葉を今朝もまた口にした。
「仁。何度も言うけど、授業にはちゃんと出て、単位を確実に取ること。ただでさえ休学してたせいでブランクがあるんだから」
「そ、それは分かってるけど、あの講義眠くて……出席だって取らないし」
「だからこそ、ちゃんと出席してノート取るべき。出席を取らないってことは、期末試験一発勝負だってことよ。油断なんて出来ない」
「それなら大丈夫だ。ちゃんとコネは廻してあるからな。ノートはちゃんと手に入ってるぞ?」
「威張ることじゃない」
何故か自慢げに答えた仁に即答し、改めて里伽子は息を吐く。今度のそれは純粋に呆れだけで作られた、正真正銘の嘆息だ。
仁、と里伽子は目の前に座る元同級生、現後輩の名を呼んだ。
「改めて言っておくけれど。私のことを優先してくれるのは凄く嬉しい。けれど、だからって自分のことを蔑ろにするのは許さない」
「別に蔑ろにしてるわけじゃ、」
「自分の授業をほっぽりだして図書館に行くのは、十分に自分を蔑ろにしてるって言うの。それに、かすりさんにちゃんと調べてもらってるんだよ。医学書ばっかり読んでるって聞いた」
右手に持っていたフォークを置いて、里伽子は自分の左の手首にそっと右手を添えた。彼女の本来の利き腕。そして、いまは動かず、感覚すら通じない肉体の一部。
其処に光る銀のブレスレットを右手で包み、うん、と頷く。
「仁があたしの為に駈けずり廻ってくれるのは見てて凄く楽しいし嬉しいんだけど――」
「いや待て、何か不穏だぞその台詞」
ひきつった顔でなにやら申し立てる仁を無視し、里伽子は吐息。
「――そんなに、焦ってくれなくても大丈夫。焦ったところでどうにでもなるレベルの話でもないんだから。私の手は、すぐに動いたりは……しない、よ」
「……それは、そうかもしれないけど」
分かってはいるものの納得まではしていないのか、歯切れが悪く返す仁。
だから、里伽子はくすりと笑う。苦笑の混じった微笑み。
「それに、あんまり急いでもらうっても……正直、嬉しくない」
「え?」
「言ったよね、仁。一生かかって、利息。払ってくれるって。償ってくれるって」
それは、あの日の言質。
家族になろうと。結婚しようと言ってくれた仁の、おそらくはそれ自体が深い深い謝罪の言葉。
「だから、あたしは焦らないよ。仁にも、焦って欲しくない。焦らないで、ゆっくりと……ずっとずっと、私を支えててくれれば、それで十分だよ」
「……何度も思うけど、お前、欲無さすぎ。もっと我侭言ってくれていいんだぞ?」
「さっき"この我侭娘"とか言ったくせに」
「ぐ。いや、あれはええと、例外」
「下着売り場に着いてきてくれないくせに」
「でも里伽子、俺があそこに着いていくのは結構な勇気が必要なのですが……」
「それでも着いてきてもらわないと、どの程度までなら着せるの手伝ってくれるのか分からない。それに、」
「……それに?」
「仁の好みの下着も分からない」
言って、こくり、と適度に温くなった珈琲を一口。ちらりと一瞥すれば、仁は顔を赤くして何か言いたそうな顔をしているが、恥ずかしさが先立って反応できずにいるようだ。
こういう話題に対して、と里伽子は思う。冷静に対応できるのは、どちらかと言えば女性の方であるらしい。
「ところで仁」
「な、何? どうした?」
「時間。大丈夫なの?」
「あ――やばい!」
今更そのことに気付いたのか、携帯を見て青ざめる仁。既に結構いい時間だ。すぐさま遅刻に結びつくわけではないが、大学までの道のりを考えるなら決して余裕があるとは言えない、そんな時刻。
仁は立ち上がると食べ終えていた食器を流しに運び、身だしなみを手早く整えて鞄を手に取った。
「じゃあ先に行ってるから。また後で」
「うん。食堂で待ってる」
「ああ、じゃあ俺行くから、」
「仁」
いままさにドアを開けて出て行こうとした仁の背中に、里伽子は声を掛けた。ん? と疑問符を挙げながらこちらを振り向いた仁に、里伽子は躊躇いなく身体を寄せて抱きつく。
「――っと。危ないぞ里伽子、いきなり、」
「ん」
無粋にも理論で返そうとした仁の言葉を遮って、里伽子は自分のそれを仁の唇に重ねた。
仁は驚いたように目を見開き――すぐに全てを受け入れるような柔らかな光をその瞳に灯し、優しく、里伽子の身体を抱きしめる。
……そのようにしていた時間は、おそらく十秒にも満たなかっただろう。
しかし里伽子は何時間も、何日間もそうしていたような充足感に満たされ、しかしそれらを欠片も表情に出すことなく自分から身体を離した。ほう、と息を吐く。自分でも分かるほどに湿った、熱い吐息。
「……どうしたのさ、いきなり」
「別に、なんでも。ごめんね、引き止めて。行ってらっしゃい」
「ん。先に行ってる。じゃ、また後でな」
名残惜しむようにそう言って、仁は部屋を出て行った。目の前で閉ざされた扉に、里伽子は無意識のうちに自由の利かぬ左腕を伸ばしかけ、それに気付いて苦笑した。
「あたしも、随分――弱く、なっちゃったな」
自嘲するように苦笑して、里伽子は部屋の窓を開けてベランダへとその身を躍らせる。見えるのは朝を向かえ活動を始めようとしている街並みだ。制服に身を包んだ学生たちや、スーツ姿のサラリーマンたちが各々の行く道を歩いている。そんな彼らを見下ろしながら、里伽子は吹く風に髪を揺らしながら仁の言葉を思い出していた。
俺が卒業したら結婚しよう、と彼は言った。
あの日あの晩、あの場所で。気付いたら外堀が埋められていて、気付かぬうちに内堀まで埋め立てに入っていた彼は、さも当然のようにそんな選択を口にしたのだ。
「でも」
眼下を見下ろし、マンションの出口から仁が姿を見せるのを待ちながら里伽子は誰にでもなく呟いた。彼女が病院に向かうまで、まだ十分に時間がある。大学に向かう仁を仁の部屋から見送るのは、彼女のささやかな楽しみでもあった。
「あたし、本当は気が短いから」
二年待たせる、と彼は言った。
卒業したら結婚しよう。休学したから、二年待たせることになるけれど、と。
「二年経ったら、待ってなんてあげない。もし仁が単位足りなくて留年してても、待ってなんてあげないから」
待つのには、もう、飽きた。
仁も、もう少し欲張りになれと言ってくれることではあるし。
そのぐらいの我侭、きっと、喜んで受け入れてくれるだろう。
里伽子はそんな予感を抱きながら仁が姿を見せるのを待つが、しかし、一向に仁が姿を見せる気配は無い。
「……?」
さすがに疑問を抱くと、その時、廊下のほうから慌しい足音が聞こえてきた。
それはドアの前で止まり、がちゃがちゃと焦って鍵を外す音がする。
「……ああ」
首をかしげた里伽子は、しかしすぐにその理由に行き着いた。ドアの傍ら。部屋を出るときに掴み上げやすいように置かれた、灰色の鞄が一つ床に転がっている。
ならば、先ほど仁が持っていったものは――自分の記憶を振り返り、そして顔に微笑みを浮かべながら、里伽子は部屋の中に戻りその鞄を右手で持ち上げる。大きさに反してずしりと重い。中に入っているのは、多分、筆記用具各種と参考書。そして図書館で借りたという専門書の数々だろう。
がちゃり、と音を立ててドアが開く。慌てて入ってきたのは、勿論、彼女が愛して止まない将来の伴侶。
仁は手にしていた鞄をこちらに差し出した。
「鞄間違えた……!」
予想できたこと。だから里伽子はそれを、仁のものではなく里伽子のものであるその鞄を抱きしめるように受け取って、代わりに仁の鞄を差し出した。
里伽子は呟く。
「――本当に。しょうがないなぁ、仁は」
そんな台詞を、満面の笑みを浮かべながら。
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