ファミーユ・ブリックモール店の朝は早い。
ブリックモールに出店している店は原則として10時に開店する。そしてファミーユもその例に漏れず、10時には店を開きお客様を迎え入れることになる。
10時に店を開くと言うことは、10時には全ての準備を終えていると言うことであり、そんなわけで各種準備を始めるために店員たちが店に入るのは早い。
とは言ってもパティシエの姉さんとかすりさん、それに軽食担当の俺以外のウェイトレス組はそんなに早く来る必要も無い。
正直店員数もそんなに多くないわが店としては恒例の朝礼に延々と連絡事項が続くこともないので、全員集合は9時45分ぐらいがいいところ。
日によっては店員が(する人間は決まっているのだが)遅刻してきて開店ぎりぎりとか言うこともある。
一度は開店に間に合わなくてやむを得ずそのまま開店したらいつの間にかオープンスペースで仕事していたこともあったが、とりあえず今は関係無い。
時計を見ると9時25分。
いつもなら、前述した厨房組――俺と姉さん、それにかすりさん以外はいるはずもなく、場合によっては由飛から「ごめんなさい、今起きたの」とかいう電話が掛かってきたり向かいの喫茶店のチーフと色々と討論してたりしていた時間なのだが、まあとりあえず今日は全員しっかり揃っている。
別に全員そろっているからと言って朝礼を早くやらなきゃいけないわけでもないが、とりあえずもう朝礼は始まっている。
「新年度となり、ブリックモールにも近隣のオフィスに通う新入社員の人たちが新たなお客様としてくることも考えられ――」
そんなわけで新年度を迎えるに当たっての心構えとかをスピーチしているのだが……誰も聞いちゃいねえ。
各々着替えを済ませ、いつでも仕事に入れるように準備を整えてこそいるが、誰がどう見ても由飛も明日香ちゃんもかすりさんも、あまつさえ姉さんまでも俺の挨拶なんかよりその後に待ってるイベントに心馳せていることは火を見るより明らかだったりする。
「――と、いうわけで皆さんより一層頑張って下さい」
挨拶が終わった。
時計を見ると9時35分。
俺は俺なりに精一杯だらだらと話したつもりだったが、時間は全然経ってくれなかった。
学校にいたころ、偉い先生方は平気で30分ぐらい話していたのだが、俺には真似できなかった。まさかそんな技術を欲しくなることがあるなんて思わなかったが。
そう思って前を見ると、わが店の自慢の店員たち+総店長。
一応店長の顔は立ててくれているのか何も喋ろうとはしないが、四人の目は口ほどにものを言っていた。
やむを得まい。
いつまでも逃げるわけにもいかないし。
っていうかいつかは通らなきゃいけない道だし。
いや、別に嫌とかそう言うわけでも無いし。
「さて、えーと。それでば」
意を決して口を開いて即噛んだ。
「しっかりしろー」
「てんちょの根性なしー」
「甲斐性なしー」
店長の顔を立てることはやめやがったらしい。
くそ、時給下げるぞ貴様ら。
「はいはい。みんなの言いたいこともわかるけど、仁くんの話済んでないからねー」
姉さんがそう言うと「はーい」とか言葉を返してまた黙った。
その顔に浮かぶ楽しそうな笑顔はもう隠そうとすらしていないが。
くそ、今月は遅くなってもオムライス作ってやらないからな。
さておき、誇るべきわが店員たちが黙ってくれたので朝礼を続けることにする。
「今日からファミーユに新しい仲間が増えることになりました」
今度は落ち着いて、何故だかすぐ乾いてしまう唇を必死に湿らせつつ言葉を続ける。
「えーと、以前も臨時のアルバイトに来てもらったので皆さん後存知だと思います」
なんかもう誰も俺の言葉なんか聞いちゃいない気がするけどそんなことを気にしている余裕は無い。
「では、どうぞ」
なんとかそう言いきって俺が場所を空けると、それまで控えていた俺の後ろからみんなの前に出る新人。
「花鳥玲愛です、よろしくおねがいします」
そう、今日は花鳥玲愛の初出勤日だったりした。
乱れ飛ぶ歓声と拍手喝采と歓迎の言葉と口笛と指笛とパーティー用のラッパとクラッカーの音。
「ちょっと待てい」
一番目のは当然だろうし二番目と三番目のは喜ばしいことだしまあ四番目のと五番目のもあるていど予想出来たことだけど最後二つは何だ。
「っていうかなんで開店前のファミーユにあんたらがいるのか」
「なに言ってるんだい仁くん。今更じゃないか」
「そうですよ。三日に一度はこっち来てたじゃないですか」
「オッサンがこっち来てるのはまあ果てしなく嫌だけど妥協するとして、長谷川さんと成田さんに加えてなんで川端さんまで」
そう、最後二つの犯人はファミーユの向かいの喫茶店、キュリオ三号店の店長である板場店長とその下で働く店員の二人、それに加えて玲愛と一緒にキュリオ三号店の立ち上げに尽力してから本店に戻ったはずの川端さんだった。
「いやだってせっかくの玲愛の晴れ舞台を見逃すわけにはいかないし」
「瑞奈ぁ……」
花鳥玲愛、怒る。
玲愛がキュリオ勤務のころ良く見た光景ではあるが、こういう悪ふざけをした板橋店長と川端さんに対して怒りのオーラを……
「ああ、それなら大丈夫」
「へ?」
膨らませたけどあっさり返された。
「川端くん、ちゃんと結城さんに指示されてここに来てるから」
「はい、これ」
まるで当然のように淡々とそう返すオッサンと、玲愛になにやら封筒を手渡す川端さん。
怪訝な表情でそれを受け取った玲愛の隣で、俺もその封筒のほうを覗きこむ。
洗練された装飾を施された封筒の中にはキュリオの店名が記された一枚のメッセージカード。
『末永くお幸せに』
「「帰れッ!」」
玲愛とハモった。
って言うかハモるまでも無く、一瞬前まで俺たちの目の前にいたキュリオの人々は出口から出て行こうとしているところだった。
「あ、お祝いと言うことで中にキュリオのギフト券入ってますから。結城店長がぜひ一度二人で本店に遊びに来て下さいと」
「ありがとうございます二度と来るなっ!」
俺の罵倒が届く前に、最後まで残っていた川端さんもファミーユを出て行った。
玲愛と二人でキュリオを見ながら、乱れた呼吸を平常に戻していく。
「……てんちょ」
「何だ?」
ぜえぜえ言っていた息が整ってきたところで明日香ちゃんに声をかけられたので、そう聞き返す。
「これ、誰が掃除するの?」
そう言われて周囲を見ると、床に撒き散らされたクラッカーから出た紙吹雪その他。
「……営業妨害じゃねえのか、これ」
誰も手伝ってくれなかったので一人で必死に掃除をして、結局店内が綺麗になったのは開店五分前のことだった。
「お疲れさまー」
蛍の光も鳴り終り、静かになったブリックモール。
昼間は様々な人々で賑わうこの大型ショッピングモールも、この時間になると静寂に満たされる。
ショッピングモール内の照明も半数以上が落とされ、各店もそれぞれ店じまいを済ませて店員たちは明日への鋭気を養うために、それぞれに家路に着き始めるころ。
「それじゃ仁くん、あとはよろしくね」
「任せておいてくれ」
われらがファミーユも店内の清掃を終え、あとは一通りの確認をすれば終了というところである。
今日の帳簿当番は俺なので、姉さんは一足先に家路についた。
入り口のドアについているベルが綺麗な音を鳴らすと、店内はまた静寂に包まれる。
「仁、掃除終わったわよ」
「おう、こっちもすぐ終わるからちょっと待っててくれ」
「うん」
こちらは掃除当番だった玲愛にそう答えると、俺は帳簿に目を戻す。
新年度の初日としてはなかなか幸先のいい数字である。
少し嬉しくなって、俺はほんの一瞬だけ少し離れたテーブルで俺を待つ玲愛の方に眼を向ける。
まあ心配はしていなかったが、玲愛は実に良く働いてくれた。
以前、板橋店長が『カトレアくんは2.5人で計算してるから』などと言っていたが、それどころじゃなかった。
例の『短期バイト』の経験はあるが、一応初日なのでそれなりに慣れてもらえばいいかと思っていたんだけど……凄かった。
喫茶店のウェイトレスの表現として似つかわしいかは置いといて、まさに鬼神もかくや、八面六臂な活躍だった。
ファミーユの基本的なシフトはパティシエール:姉さん、ウェイトレス:由飛&明日香ちゃん、軽食担当の俺に加えてオールラウンドなヘルパーとしてかすりさんと言う感じだったんだが……いや本当に凄い働きっぷりだった。
厨房にこそ入りはしなかったが、それ以外の仕事は正に完璧だった。
玲愛がいるならかすりさんは厨房に専念してもらって大丈夫なんじゃないだろうか。いや掛ね無く本気で。
「……仁?」
「あ、悪い」
「別に、悪くはないけど……」
ほんの一瞬眼を向けたつもりが、思わずじっと見つめてしまっていたらしい。
玲愛は恥ずかしかったのか頬をほんのり赤く染めて上目遣いにこっちを見つめてきている。
……うわ、やべぇ。
夜のブリックモール。
聞こえる音は壁に掛かった時計の音のみ。
薄暗い店内に、男と女が二人きり。
そして俺の目の前では玲愛が照れながらも俺のほうをじっと見つめてきているいやホントやばいって。
チェックが終わった(ことにした)帳簿を所定の位置にしまい、その間もじっと俺のほうを見詰めていた玲愛の方に向き直ると俺は――
「仁」
「はいっ!?」
我に帰った。
やばかった。
どれぐらいやばいってあのクリスマスイブの夜ぐらいやばかった。
今声をかけられなければこのまま距離を詰めていかんいかん落ち着け俺。
「ちょっと……いいかな?」
「んあ?」
ふと見ると、玲愛の表情はさっきと変わって何か考え込んでいるような真剣な表情だった。
俺も『んあ』とか間抜けな返事をしている場合じゃない。
「どうした?」
「こんなことがあったんだけど……」
考え込んでいた玲愛は俺の様子に気づかなかったのか、そういってポツリポツリと語り始めた。
あの怒涛の朝礼の後、俺が掃除にあけくれていたころ。
開店前に一応一回りし、みんなに挨拶をして回ったらしい。
さすが社会人って言うか、あの朝礼の雰囲気だと何かから変われたんじゃないかと思ったがそんなことはなかったらしい。
どうもファミーユ店員がからかいたいのは玲愛よりむしろ俺の方らしい。
店員に対する教育を間違っていたのだろうか。いや、そもそもしたおぼえも無いけど。
そしてみんなのところを回り、最後は総店長である姉さんのところへ。
「よろしくおねがいします」
「よろしくね」
姉さんは快くそう返してくれたそうだ。
それについては全く問題なかったわけだが。
「でも、よかったの?」
「? 何がですか?」
「キュリオから突然こっちに来ちゃって」
「えーと」
「キュリオで何かあったの?」
「……ってところで仁の掃除が終わったから、そこで話は打ち切りになったんだけど」
「あー……」
ああ、まあそういやそうか。
十分に予想できた展開ではある。
予想できたというか、予想していたんだけどあえて目をそらしていたって言うか。
まあ現実から眼をそらしているのもそろそろ限界っぽいので、玲愛に説明してやることにする。
「姉さん、俺とお前の関係知らないんだよ」
「……え?」
呆気に取られている。
まあ、そりゃそうだろう。
「あれだけ色々やったのに?」
「いや、姉さん腹芸とかできない人だから手伝ってもらわなかったし」
「でも、普通気づくでしょ」
その通りだ。
玲愛が本店に戻るとか戻らないとか騒いでいたときに、ファミーユの皆はもとよりキュリオの面々までもが動き回り、あまつさえ後で聞いたところによるとキュリオの本店と二号店の人たちまでが固唾を飲んで見守ったり賭けたりしていたあの騒動に気づかない人間がいるなんて、信じられないだろう。
って言うか俺もさすがに気づけよと思ったりしたけど気づかれるとそれはそれで問題だったのでまあ良しということにしておいた。
決して気づかれるのが怖かったとかそう言うことは無い。
……本当だぞ?
「由飛だって気づいてたのに……」
「あまいわね。貴方は恵麻さんを甘く見ている」
「そうそうその通りってかすりさんいつの間に!」
「ふっふっふ。わたしは何でも知っている〜」
いつの間にか横から聞こえた声に驚いて振り向くと、そこにはもう帰ったはずのかすりさんがいた。それはもうすげぇ楽しそうな笑顔を浮かべて。
って言うかその背後には由飛と明日香ちゃんまで控えていらっしゃった。
つまり姉さん以外のファミーユの店員勢揃いなわけだが。
「……どのへんから?」
「仁くんが玲愛ちゃんに見とれてハァハァし始めたころから」
「っ!?」
ひとしはこうちょくした!
れあはまっかになった!
「てんちょ、不潔―」
「仁、最低ぇー」
あすかはばとうした!
ゆいはさげすんだ!
ひとしはしんでしまった!
おおひとしよしんでしまうとはなさけない。
「ほらほら仁くん、ドラクエごっこやってる場合じゃなくて」
「俺の墓前には父さんと母さんと兄さんと姉さんの写真を備えてくれ」
「ちょっと仁、私はどうでもいいって言うの!?」
「まあまあ玲愛ちゃん、落ち着いて」
軽く錯乱していたら玲愛に怒られたりもしたが、由飛の手によって引き離された。
いかん、不謹慎なネタは避けよう。
「えーと」
とりあえず起き上がって椅子に座る。
目の前にいるのは相変わらずすげぇ楽しそうなかすりさんと、不機嫌そうな明日香ちゃん。
そしてちょっと離れてまだ機嫌が治りきってないっぽい玲愛とそれを羽交い絞めにしている由飛。
なんか問題が増えただけな気がするのだが。
「で、何の用ですか?」
「やだなあ仁くん。わたしたちが仁くんと玲愛ちゃんをからかうだけのために閉店後の店内にずっと潜んでいたとでも?」
「いや、そうとしか思えないんだが」
「それはともかく!」
否定すらしなかった。
「仁くん、恵麻さんに二人のことを報告したいんでしょ?」
「いやまあ、その通りだけど」
勢いに押されてそう答える。
明らかにごまかそうとしているのは見え見えだけど、今更指摘してもどうにもなるまい。
それに事実、姉さんにどう伝えるかは身近でかなり重要性の高い課題である。
しかも極力ショックを与えずに。
それが難しいから今まで報告してなかったわけだが。
「そこでわたしたちが、二人のためにセッティングを」
「断る」
「速っ! っていうか即答っ!?」
これ以上弱みを見せるわけにはいかないと言うか、そういう問題でもない。
「みんなの手を煩わせることもない。覚悟を決めて姉さんにちゃんと報告するよ」
かすりさんの方をしっかと見つめて、そう告げる。
そう、これは俺と――俺と玲愛の問題なんだから。
そう思って視線を玲愛の方に向けると、照れたように視線をそらしながらもしっかりと頷いた。
二人の問題なんだから。
それを他人に甘えて、色々手を尽くしてもらうなんてしちゃいけないから。
視線を交わし、互い意思を確かめ合う。
もう恐れる物は何も無い。
やましいことをしているわけじゃない。世間に顔向けできないことをしているわけじゃない。
正々堂々、二人一緒に小細工無しで、姉さんに報告しに行こう。
「……よし。仁も玲愛ちゃんも、頑張れ」
「由飛?」
する、と。
それまで玲愛を羽交い絞めにしていた由飛がその手を解いた。
「仁も玲愛ちゃんも、覚悟を決めたんでしょ?」
「……ああ」
「……ええ」
由飛に問われ、その視線をしっかりと受け止めながらそう答える。
俺は自分を慕ってくれた女性に対して。
玲愛は自分を愛してくれた姉に対して。
もう逃げちゃいけない。
これ以上この問題を先延ばしにしていると――。
「うちのお父さんとお母さんに挨拶しに来たときみたいに、気合入れて頑張ってきて!」
「「由飛!」」
「ほぇ?」
時すでに遅かった。
「ほほーぅ」
かすりさんが楽しそうにそう声を漏らした。
「由飛ちゃん、ちなみにその時てんちょ何て言ったの?」
「それがね、家に来て第一声が『玲愛を俺に下さい!』って」
「「由飛!」」
再度、玲愛と二人で叫んで見たけど止まりゃしなかった。
ああ、かすりさん超楽しそうだ。
明日香ちゃんもなんか悪そうな笑顔浮かべてる。
由飛は普段と何にも変わっていないけど。
こうなるのが嫌だから、覚悟を決めたって言うのに。
落胆して玲愛のほうを見ると、『アンタがぐずぐずしてるから悪いのよこの根性無し!』って表情でこっちを睨んでた。
しかもそのままぷいっと顔をそらした。
いや、誰がどう見ても今一番悪いのは余計なこと言った由飛じゃねえのか?
「幸いにも明日は定休日だから。犬も食わない痴話喧嘩はあとでやってもらうとして、今夜は洗いざらい吐いて行って頂戴」
「断じて断るっ!」
「逃げてもいいわよ? そしたら由飛ちゃんから全部聞くから」
「鬼っ!」
「はい、てんちょと玲愛さん。紅茶煎れたからゆっくり話してね」
「悪魔っ!」
深夜のブリックモール、閉店作業の終わったファミーユに俺の罵倒が響き続けた。
「玲愛ちゃん、わたし何か悪いことした?」
「あんたは何も喋るんじゃない」
つい先日修復したばかりの姉妹関係にも軽くひびとか入ったっぽい。
ちなみに次の日、覚悟決めて姉さんのところに報告に行ったら案の定大変なことになった。
「仁くん、わたしのことお嫁さんにしてくれるって言ってたじゃない!」
「仁っ!?」
「ガキのころの約束だからっ!」
そしてさらにその次の日、心身ともに消耗しつくして出勤してみたらキュリオの人たちまで駆けつけて、俺と玲愛のことを心の底から祝福してくださった。
「いや、あの日の本店での愛の告白は今でも語り草になっててな?」
「大村さん!」
愛すべき人たちには惜しみない感謝を。
でも頼むからそっとしといてくれ。
いやマジで。
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