あの日、キュリオ本店で玲愛のヘッドハンティング宣言をした後。
いやなんかついうっかり違う話になってしまった気がする上にそのまま花鳥家まで引きずられて行って、ひょっとしなくてもお前全部仕組んでいただろうと言うあの日から数日。
夜、トイレに行きたくて目が覚めた。
「うー……」
暖かい布団の中から抜け出し、軽くぶるりと震える。
暦の上では春になっているけど、深夜ともなると肌寒い。
裸だったりするとなおのこと。
すぐにトイレに言っても良かったんだけど、いくら自分の部屋とは言っても一糸纏わぬ姿で男がのそのそ歩いている姿と言うのは想像するに結構嫌なものがある。
そんなわけで床に放り出してあった部屋着を着こんでトイレに向かう。
用を済ませる。
すっきり。
用を済ませてしまえばこんな寒いところにいる必要はないので、そそくさと温かい布団へと戻る。
まあ、戻るとか大層な事を言っても所詮はワンルームのマンションである。
数歩も歩けば何の障害も無く目的地へ――
たどり着く前に足元に何かが引っかかった。
別にそれでつんのめったとか転んだとか言うことはないが。
「……ふむ」
まだ半分寝ぼけた頭だったが、ふと思いついた。
そこから想像をめぐらすに、思いの他いい案な気がしてきた。
「よし」
思いついたら即実行。
それが、今では結構評判のファミーユブリックモール店を繁盛させた高村仁の心情。
頭を振って、まだ呆けてた脳を覚醒させて行動開始、そして完了。
そして結果確認。
よし。万事問題なし。
「うぅ、寒っ!」
そろそろ春とは言っても深夜は――更に室外ともなればかなり寒い。
そんなわけで俺は布団に戻る。
時計を見てみるともう十分前に抜け出したらしいあの場所へ。
掛け布団と敷布団の隙間に滑り込むように入り込むと、抜け出したあの時と変わらぬ温もりをもって俺を迎え入れてくれた。びば、布団。
そんなことを思いながら、俺の意識はさくっと眠りの国へと旅立った。
次に目覚めたときには、しっかり朝だった。
しっかりカーテンを開け放たれた窓からは朝の心地よい光が射し込み、少し開けられた窓の隙間からは爽やかな朝の空気が流れ込んできている。
爽やかなのはいいんだが、朝なので空気も冷たい。
慣れれば大したことないのかもしれないが、今俺がいるのは温かい布団の中である。
困難に立ち向かうことは大切かもしれないが、俺はまだ少しの間この温かな場所で――
「仁、朝ごはん出来たわよ」
「むう……」
そういうわけには行かないらしい。
布団の温もりは確かに魅力的だが、いつまでもこうしているわけにはいかない。
今日は確かにファミーユの定休日だが、それでも最近は色々とやることがあるのだ。
店長には様々な業務があるのだ。
本来なら総店長にも半分ぐらいやってもらいたかったりするが、まず間違いなくまだ寝 てるだろうって言うか起きるのはどんなに早くても昼過ぎだろう。
……まあそこはかとなく納得いかない気もするが、家に帰ってまで仕事をしないといけないのはもとはと言えば俺のせいだし。
この仕事は俺がやらなければいけない仕事だと思うので、軽く気合を入れなおしてベッドから跳ね起きる。
「おはよう、仁。目は覚めた?」
「ああ、おはよう」
そして俺の目の前に立つ玲愛にそう答え、脳を活性化していく。
もう既に食卓には朝食が並び、コンロにかけてある鍋からは味噌汁のいい匂いがする。
ちなみにメニューは鮭の塩焼きにほうれん草のおひたしと浅漬け。
茶碗には今玲愛の手で白米が盛り付けられ、俺の席には納豆の入った小鉢が用意されている。
うん、あいかわらずバリバリの和食。
そんなことを思いつつ玲愛の方をしみじみと見つめていると、俺に茶碗を渡した後にその口を開いた。
「何か言いたそうね」
「いや、その外見で和食って言うのが違和感あって」
「なによ、またその話?」
半ばうんざりしたようにそんなことを言う。
いや、確かにこの話題は初めてじゃないかもしれないけど、しょうがないと思う。
母親がフランス人な玲愛はハーフなので、見事な金髪でその結構長い金髪を両脇で二つに結び、さらに吊り目でかなりの美人。
恋人のひいき目では無く、玲愛は町を歩いてればかなりの男が振り返るような容姿である。
さらに、地元のみならず最近では他の県までその評判が届き始めた洋風アンティーク喫茶店・キュリオのブリックモール店でチーフとして店長そこのけの仕事をこなした玲愛。
そんな彼女が料理を作る――しかも朝食ともなれば、普通洋風だと思うだろう。
俺もそう思った。
そんなわけで付き合い始めのころに何度かそんな話をしたものである。
でもまあ別に洋風喫茶の従業員が和風の朝食を作ってはいけないと言う法律があるわけではないので、最近ではこんな朝食にも慣れた。確かに自身持って作るだけあって美味しいし。
でもまだ台所に糠床があるのだけはどうしても慣れないが。花鳥家秘伝とか言われても困る。
まあそれはさておき。
「いや、それはさすがにだいぶ慣れたが」
「何よ」
俺の言葉を聞いて、少し不機嫌そうにそう返す。
最近は、本当に不機嫌なのかとりあえずそう見せているのかがわかるようになって来たので怖くはない。
今は照れ隠しに不貞腐れて見せているだけだ。
だから俺はにっこり笑って思った事を正直に告げる。
「やはりYシャツ一枚で料理と言うのはそそるものがあるなあと」
「着替えがこれしかなかったのよ!」
言葉と同時におたまがすっ飛んできて正確無比に俺の顔面に命中した。
恐るべし花鳥玲愛、本来投げるためには作られていないおたまをこんなに完璧に投擲して見せるとはって言うかかなり痛い。
「昨日確かにそこに置いておいたはずなのに、朝起きたらYシャツが一枚だけ置いてあったんだけど」
顔を真っ赤にしてぷるぷると微かに震えてみせる玲愛。
うん、これはポーズじゃなく本当に怒ってるな。
こういうときに焦りは禁物だ。
相手の感情が昂ぶっているときこそ冷静にならなければいけない。
それがファミーユ店長、高村仁の人心掌握術。
「ああ」
だから俺は額をさすって、痛みが若干ひいてから言葉を続ける。
「勿論俺の仕業だ」
そりゃそうだ。この部屋には俺と玲愛しかいないんだから、玲愛に覚えがなければ俺と言う可能性しか残らない。
夜のうちに誰かが不法侵入してきたと言う可能性もゼロではないかもしれないが、そんな危険を冒してこんなことする馬鹿はいないだろう。
「なんでそんなことしたのよ」
玲愛は原因が知りたいのか、そんなことを聞いてくる。
だから俺は玲愛の目を見つめ返し、はっきりと力強く答えを返す。
「その格好見たかったから」
お椀直撃。
おたまに比べて投げやすい形状をしていたからか、玲愛の怒りがましたからかは知らないけど超痛い。
でもまだ最後まで言い終わってない。
だから俺は言葉を続ける。
「大丈夫、そこにあった着替えは夜のうちにお前の部屋に置いてきた」
返事は前蹴りだった。
顔面直撃だった。
「なに考えてるのよ!」
わりと本気で痛かったのでしばらくうずくまっていたりしたのだが、玲愛の怒りは衰える気配を見せない。
俺の目の前にしっかとたち、俺を断罪するかのように見下ろしている。
そしてその顔は怒りで――いやなんか怒り以外の原因が多そうな気もするが、とりあえず顔は真赤にしていた。
いや、確かに今のこの状況は九割九分俺のせいだし、俺が望んだ通りではあるが。
「そんなに恥ずかしいならズボンでも何でも適当に使えばよかったろうに」
確かに玲愛の着替えは隠したが、俺の着替えなら何ぼでもあるわけだし。
そんな俺の問いに対して、玲愛は今までにも増して顔を赤くして答えを返した。
「勝手に箪笥開けて人の服借りるわけには行かないじゃない!」
「……相変わらず妙なところで律儀だよな」
勝手も何も、そもそも昨日その箪笥に服をしまったのは玲愛本人なんだが。
更に言うと洗ったのも玲愛で干した後に取り込んでたたんだのも玲愛だ。
ついでに言っておくと玲愛が今着てるシャツにノリ効かせてきちんとアイロンかけたのも玲愛。
と言うか最近ろくに家事をしていない気がする。
この間なんかかすりさんにダメ亭主呼ばわりされた。
だって俺が何かやろうと思うころには玲愛はとっくに済ませてるんだもの。
でも、あれだ。俺だって休日の昼間に何もせずごろごろしていて奥さんに『ああもう邪魔くさいからパチンコでも行ってきてください』とか言われるようなおっさんたちと一緒にされては困る。
確かに掃除や洗濯はまかせっきりだが料理は……そう言えばここしばらく卵料理しかしてない気がする。
いや。俺としては毎日料理したいんだけど、一日三食卵料理を出したら台所を追い出された。
卵は万能な完全食品だと言うのに、何故理解してくれないのか。
そんなわけで俺の料理が許可される日は水曜と土曜だけだったりするのだが。
いやでも、俺は女に家事を全て押し付けてパチンコに行くようなダメ亭主じゃない。
まだ結婚してないから亭主じゃないとか言う基本的なことは置いといて、パチンコなんかやりに行ったら玲愛が怒る。
……やっぱりダメなんじゃないだろうか、俺。
軽く落ち込んでいると額の痛みが引いてきたので、なんとなくおずおずと玲愛の様子を伺ってみる。
「仁」
「はいっ!」
名前呼ばれたので即正座。
ダメだ、ダメだぞ高村仁。
そんなことでは、またみんなにカカア天下と後ろ指を指される。いや、なんか表現としてはおかしい気もするけど感覚的には大体合ってる。
ここは一つ毅然とした態度で臨むべきだとわかってはいるんだけど、身体に染み付いた習慣はそうやすやすと変えられるものではない。
て言うか今回の一件に関しては完璧に俺が悪いんだし。
とりあえず、見るものはしっかり見させていただいたのでもはや悔いは無い。
正座しながらそんなことを考えていると、玲愛は言葉を続ける。
「……それで?」
「はい?」
えーと。
意味がよくわからなかった。
俺の想定だとこの後少し怒られた後に着替えを取りに行かされるんだとばかり思ってたんだが。
口調からすると、とりあえず怒りは収まってるぽいので顔を上げる。
目の前には、さっきと変わらず立っている玲愛。
ちなみに正座してる俺の目の前はちょうどシャツの裾あたりで視界の端には綺麗な脚やら裾からちらちらと見える危険な領域やらが入ってくるのだが、あまりそれを見てるとせっかく収まりつつある玲愛の怒りが復活しそうなので顔の方を見上げてみる。
かなり名残惜しいものがあるが。
見上げてみると、多少収まっては来たけれどもまだ顔を赤くしている玲愛。
一瞬視線が合ったけど、それに気づくと慌てて顔を逸らした。
いや、逸らされても困るんだが。
玲愛もそれはわかったのか、何度かちらちらとこっちの様子を見てから俺の方に向き直り、もう一度口を開いた。
「感想は?」
「え?」
「そこまで手の込んだ事をしてこれを見た感想はどうなのかって聞いてるのよ!」
そう言い放つとまた顔を逸らす。
でも、少し逸らしたぐらいじゃ隠し切れないほどその顔は真っ赤に染まっていた。っていうか耳まで真っ赤。
ああ、もう、なんだ。
嫌もう言いたいことは色々あるしやりたいことは山ほどあるけど、とりあえず今しなきゃいけないことは一つしかない。
だから俺は、さすがに少し照れくさかったけど素直に言った。
「うん、すげぇいい」
言ってからもう少し言葉選べよ俺とか思ったけど、他の言葉が思いつかなかった。
って言うかこの状況で――朝起きたら自分の好きな女がYシャツ一枚で料理してるという状況で冷静に言葉選べるようなやつはいないだろう。いたとしてもそんなやつとは仲良くなりたいと思わないので即帰れ。
「……」
玲愛は相変わらず耳まで赤くして俺から顔を逸らしている。
いやもう耳までって言うか真っ赤になってるのが丸わかりで、逸らされた表情がどうなってるのかとか想像していると朝だと言うのに俺はそろそろ限界なわけなのだが。
ああ、もう無理。
漫画だったら『がばっ』とか擬音がつきそうな勢いで立ち上がって玲愛の前に立つ。
「ひ、仁?」
「ダメだ。もう無理」
「何が無理なのよ! っていうか朝から何する気よ!」
「お前が可愛すぎるのが良くない」
そう言って玲愛の前に立ち、その細い腰に手を回して抱き寄せようと――
ぴんぽーん
したところでチャイムが鳴った。
「ほら、お客さん」
そう言うと玲愛はこれ幸いといった感じで玄関の方に向かう。
まあ、さすがに誰かが外に来ているのに事に及ぶほど俺も根性は無い。
何より今のチャイムで冷静になった。
当初予想してたよりしっかりと見れたことだし、まさか一日あの格好で過ごして貰うわけにもいかないから、客が帰ったら着替えを――
「はい、どちらさまですか」
「玲愛っ!?」
気づいた時には遅かった。
もう公然の秘密どころか秘密にする気も無いので玲愛は普通に――と言うかむしろ積極的に俺の家の電話やら玄関やらに普通に出るわけだが。
それはいいのだが。
インターホンなんて言う高級なものがついていない我が家で客を迎え入れるためには玄関の扉を開けなければならず。
まあ、セールスとかも来ないのでそれ自体に問題はないのだが。
「あ、玲愛。ちょうどよか――」
来る客だって知人ばかりで、今だって来ているのは二軒隣でキュリオ三号店勤務の川端さんだから問題はないのだが。
「……瑞奈?」
「お邪魔だった?」
川端さんはいたずらっぽくそう微笑んで、玲愛の肩越しに俺の方に視線を送る。
即目を逸らした。
次の瞬間、勢いよく扉を閉める音が響き渡った。
「仁っ!」
「いや、気づけよ!」
そう、玲愛の着替えは未だに玲愛の部屋から持ってきてないわけで。
着替えがない以上玲愛はさっきと同じ格好なわけで。
つまり川端さんの前に現れた玲愛はYシャツ一枚なわけで。
「もとはと言えばあんたがこんなことするからでしょうがっ!」
「それはさっき謝っただろ! っていうか出るなよ!」
「それは朝からあんたが変な事しようと――」
「だからそれは――」
「大体あんたは――」
一方、すげぇ勢いで閉められた扉の外で。
川端瑞名は携帯電話片手に話をしていた。
「あ、店長。予定どうりいつものアレ始まりましたから30分ぐらい遅れますね。はい、それが今日はまた凄いんですよこれが。あのクリスマスの時以来の――」
ちなみに痴話喧嘩の模様とその他もろもろは板橋店長経由でファミーユとキュリオ本店&二号店に若干の脚色をされつつ流されるので結構大変なことになったりする。
でもまあそれはまた別の話。
「嫌なら嫌って――」
「時と場所を選べって――」
とりあえず、今は仲良く喧嘩中。
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