「わたる〜」
「ちゃんと数えたか?」
「うん」
「おう。じゃ、出るぞ」
「はーい」
「ふう」
ギターを片手にベランダに出てきた俺は、いつものように座り、景色を眺めながら指の赴くままにギターをつま弾く。
風呂上がりでわずかに上気した頬が、穏やかに凪ぐ風を受けてその熱を冷ましてゆく。
夜空と島の町並み、そして海が一望できるここからの景色は、何度見たって飽きることがない。それはいつだって、いつまでも。
そうして気の向くままに一曲終えた所で、弦を奏でる手を止めて、ビールの缶を取り上げる。ふたを開けようとしたところで、闖入者の気配。
「お疲れさま」
振り返るまでもなくわかる。
やってきたのは奈緒子だ。
ねぎらいの声にただ、ポンポン、と隣をたたいて示す。
もちろん彼女も何も言わずに座る。
それはいつものことで、
そして。
「まあ、最後だからな」
「そうね」
爆弾のような、決定的な、俺の言葉にお互いしんみり……、
「…………」
「…………」
……アレ?
「なんだよ?」
「べっつに〜?」
だから、しんみりとだなぁ…。
「…………」
「…………」
その、無言なんだけど、なぜかゴゴゴとか擬音がつきそうなプレッシャーに耐えきれず、根負けしたのは俺の方。心当たりは……これだろうなあ。
「……静と一緒に風呂入ったことか?」
「あたしは別に怒っていないわよ?」
間髪入れずに返ってきたその発言が、すでに今の気分を証明していると思うんだけど、……わかっててやってるんだろうな、絶対。
「ほんとよ?」
「……わかった」
「ほんとうです〜」
「わかったって」
ったく。
いいかげんしつこいので、こっちも仕返し。
「オッケー、怒ってない」
「そうよ」
「でも妬いてるだろ?」
「…………」
図星らしい。
わずかに頬を染めた奈緒子の顔に、正直ちょっとだけ弱くなったなあ、と思う。
あの鉄壁のガードはどこに行ったんだか。
まあ、油断してるとすぐ反撃が来るから、こんな事本人に言えやしないけど。
「……その、な」
「…………」
「……最後、だからな」
さっきは多分わざと見逃していたのであろう、同じ台詞。
それが彼女のやきもちにごめんとは言わなかった理由。
「………………」
そして、奈緒子も報復に出ない理由。
黙ってしまった奈緒子にあえて声をかけず、空を眺めて、またギターに手を伸ばす。
そう、それはすでにわかっていたことで。
俺たちは泣いて、わめいて、抱き合って、
そして明日──別れるのだ。
なんとはなしにつま弾かれるギターの旋律は、けしてもの悲しいものではないけれど、お互い無言のままのこの雰囲気では、寂しささえ感じさせる。
ずっと前から覚悟してて、納得──はしてなくても理解はしてて、もう準備も済んでいて。
……だからといって、この感情が薄れるわけじゃない。
そうしてお互い口をつぐんで、
「……でもさ」
ようやく口を開いたのは奈緒子から。
「楽しかったよねぇ」
「……ああ」
明日泣くのはもうその瞳に映す相手がいなくなるからで、
明日わめくのはもうその口が名前を呼ぶことがないから。
そして明日抱き合うのは、……もう触れられる距離にいないから。
つまり。
別れがつらいのは、それだけ楽しかったからで。
「覚えてる? 航。あの夜、辻崎先輩に言った言葉」
「うん? ああ……」
あの時の言葉はどれもが大切なもので、どれのことを指しているのかわからないけれど。
だからこそ、全部覚えてる。
「『あのこと』は、お互いが、もうお別れって信じてたから結ぶことのできた、奇跡みたいな関係だったんだね」
「ぉい…………」
よりによってそれかよ。
でも、黙って待つ。
きっと、その言葉の先に伝えたいことがあるんだろうから。
今の俺たちはあの頃とも、そしてその台詞を聞いた夜とも違うから。
「きっとさ、この一年も奇跡みたいなものよね」
「…………」
「みんなで泣いて、笑ってさ」
「…………」
「嬉しくて、悲しくて。……でも楽しい日々。お別れってわかってて、でもだからこそ起きた奇跡」
「…………」
「でも、一度起こせたんだから、きっと二回目も起こせるよね?」
また再会することが出来るんだよねと、彼女はそう言っている。
けど、
だけど、そんなのは違う。
そっと願うような、
祈るような、
そんな弱々しい瞳をしているのは奈緒子じゃ、
"会長"じゃないから。
だから俺は言ってやる。
「……奇跡じゃない」
「え?」
「奇跡じゃないよ、それは」
「──ぁ」
何でそんなことを言うの? って、顔。
それがやっぱり納得いかなくて、ちょっとだけ許せなくて、だから一言だけ続ける。
「わかるだろ?」
それは、仲間を守るためにありとあらゆる手を使った、それだけ頑張った、奈緒子が一番知ってるはず。
「だから奇跡じゃない」
俺たちが、つぐみ寮のみんなががんばった証だから。
みんなで勝ち取ったものだから。
だからじっと見つめる。
言葉なんていらないはずだから。
奇跡なんかに頼らなくても、俺たちはまた、会えるんだから。
「……そっか。そうね」
「ああ」
そのまま言葉はなくて、あるのはギターの音だけだけど、それはもう寂しくない。
俺たちの沈黙も、静けさも、もう穏やかなだけ。
そして、
「ん──」
ひとつうなずいて立ち上がり、
彼女は両手を広げて、くるりと舞う。
薄明かりに照らされ、輝きながらなびく彼女の長い髪は翼のようで、どこかに飛んでいってしまいそうで。
だから俺は、飛んで行くにはまだもうちょっとだけ早いと、そっと手を伸ばして、足を踏み出して。
「航……」
彼女もそれを望んでいて。
だから──
バリッ!
「うわっ、たた……」
…なぜか突然90度回転した俺の視界に映る彼女は、思いっきり呆れ顔だったり。
「なんで毎日ここに来てるのに、最後の最後で踏み抜いちゃうのよ?」
「うぅ……」
怪我は? と聞いてくる声に問題ないと答えるも、俺の視界に変化はない。
えー、つまり。
ベランダの床板をぶち抜いて、膝の辺りまでずっぽりと嵌った俺は、端から見ると転がっているわけで。
まあ、老朽化著しいつぐみ寮だから、今まで持ったのが不思議なぐらいとも言える。
そして上から降ってくる呆れたような、いや呆れている声。
「まったく。どこまでもしまらないヤツ」
「面目ない」
穴があったら入りたい。
いや、足だけはもう入ってるけどな。
だから慌てて立ち上がろうとして──、
「だからあたしが──、しめてあげる」
「え?」
そこにあったのは、勝ち誇ったような笑顔の俺の女神様。
「ん……」
よりそうように、二つの影は重なって。
一つになった影は、そのまま全然離れなくて。
そっと、ありがとうと呟いた声が聞こえた後のことは、よく知らない。
これが、とある街で俺たちが再会する、1年とちょっと前のお話。
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