あの日。
俺とさえちゃんは約束した。
あと1年半、俺が卒業するまでは教師と生徒。
節度を守って、何の問題もなく過ごすこと。
もちろん、つらかったりとか、寂しかったりとか、そんな気持ちがないと言えば嘘になるけど、そうするべき理由はあったし、一度決めたことは決めたことだ。
だから、二人で守っていく。
そのはずだったんだけど……。
「うふふふふふ」
……いま俺は、いつもとは違う様子のさえちゃんに、とまどいを隠せない。
ベランダのお約束、『んぐんぐ、ぷは〜』。
突発的に起きるこの飲み会の今日の参加者は、俺とさえちゃんの二人。
それ自体はもともとよくあることだったし、あの約束の後だって適当に愚痴を聞いてやって、適当にからかってやって、そして酔いが回らない内におしまい、って感じでやってきてた。お互い一線を越えないように。
だけど、今日はなぜか、
「ねえ、星野ぉ」
最初からこのテンション。
完全に酔った風情の甘えた声の主は、"教師と生徒"から明らかに30cmほどは近い距離にいて、それって明らかにルール違反なわけで。
そんな、とまどう俺を尻目に、
「ちょ……やめろって」
担任教師の方はというと、
「やぁーだぁ」
なんて言って、しなだれかかってくる。
そしてそんな、まとわりついてくる彼女に、
何度呼びかけても離れない彼女に、
俺は、
──こらえきれなくなった。
「さえちゃん!」
「ひゃう!」
ぴったりと張り付いた体を引き剥がす俺の勢いと、声の剣幕に驚いて、座り込む彼女。
そうして、
「…………」
「…………」
睨み合うような、わずかの間があって。
「うー……」
ようやくそれだけ言って立ち上がったさえちゃんは、とぼとぼと歩き出す。
言い訳もせず、こっちも見ないで。
だから俺も──いや、別の理由もあってだけど、けして呼び止めようとしなかった。
俺の前を横切り、階段を下りて、姿が見えなくなって、やがてその足音も聞こえなくなる。
そこまで見届けてから、ようやく息を吐いた。
強く、強く、抑えつけていたものを一緒に吐き出す。
自制しなきゃいけない。
彼女の肌の手触り、温もり、匂い。
そうしなきゃ耐えられなかったから。
深呼吸と共に脱力し、弛緩していく俺の視界に、彼女が置いていってしまった缶が映った。
「…………」
とっくに空になっていた自分の缶を投げ捨て、まだだいぶ入っているであろうそれをつかみ、一気に口の中に流し込む。
叫び出したくなるのを抑えるために。
喉を通るアルコールの、焼けるような感覚を味わおうとして、
「!?」
そこで俺は気づく。
「み…ず……?」
もう一度あおる。
「水だ……」
どっからどう見ても、ただの水。
多分ミネラルウォーターですらない。
それって、
つまり。
「……っ! あのダメ教師が!」
思わず握りつぶした缶から、水がこぼれ出て、手を濡らす。
いや、違う、そうじゃない。
そうじゃなくて、
「何やってんだよ、俺……」
わかってたはずなのに。
わずかに感じていた酔いは瞬く間に醒め、冷えた頭は現実を受け入れる。
それはそれでも俺はきっと間違ってなかったっていうこと。
間違っているとすれば、それは彼女の方で、そんなことはお互いわかってるってこと。
正しい答えは最初っから一つだけ。
そんなことはわかっているんだけれど。
だけれど、それでもフォローは必要だよな。
さえちゃんにも、
俺にも。
「…………」
星しか見えないこの空を眺めながらちょっとだけ、考えて。
俺は立ち上がった。
「入るよ」
「…………」
降りて、さえちゃんの部屋。
返事はなく、けど、拒絶もなく。
中に入ったはいいものの、彼女はというとしばらくしても無言のまま。
埒が明かないので、トン、とくしゃくしゃになった缶を、わざとらしく置いてみせる。
「ったく、手の込んだことしやがって」
それでようやく、ビクリ、と反応があって、
「失敗、しちゃったけどね」
こっちを向いて、あははと、さえちゃんが笑う。
だけどその顔は、涙の跡をまったく隠せてなんかいやしない。
その様子にこっそりため息をつく。
酒に酔ったフリをして、そしてフリをしてでも、俺と恋人として触れたがった、その──弱さ。
なんで、この人は、こんなに。
でもそれは仕方がないのかもしれない。
そういう彼女だから、俺は好きになったんだから。
だから俺は一歩前へ、彼女へ、
近づく。
「確かに失敗だな……大失敗だ。うん、でもさ……伝わった」
「……なにが?」
また、一歩。
「さえちゃんの気持ち」
もう一歩。
「ほんとに?」
すぐ目の前に、泣き顔。
「伝わった。だから──」
──頭を、そっと撫でる。
「俺にできるのはここまで。さえちゃんが受け取れるのもここまで。オーケー?」
ゆっくりと手の動きを続けながら、瞳をのぞき込む。
俺たちのこと、みんなのこと。
つぐみ寮での生活、これからの生活。
ここで壊してしまうわけにはいかないし、
なにより。
──二人で決めた約束だから。
「……うん」
「よし」
長い長い葛藤を経て、やや拗ね気味に頷いた彼女を、よくできました、とばかりに、ぐりぐりとなで回す。
「ぁ……」
たった、それだけで、うれしそうに目を細めるさえちゃん。
なんか犬みたいだなーとか思ったりもするけど、それ以上その方面で考えると倒錯的な何かを思いつきそうなので止めておく。
そして、そんな彼女の様子に、手を離すのがもったいなくて、もっと触れていたくて、
だから、
「じゃあ、戻るわ」
手を離す。
「ほしのぉ……」
もっと欲しい、と上目遣いでこっちを見つめるその目に、
う、とぐらつく心をぐっと抑え、
「先生?」
と、言い渡す。
それが今の俺たちの境界線。
だから、あう、とうつむく彼女には構わず、とっとと廊下に出る。
俺だって、いつまでも我慢できるわけじゃないし、な。
そのまま扉を閉めようとして、そこでようやく追いついてきた彼女の、廊下の薄明かりに浮かぶ顔はまだぐちゃぐちゃで。
「……星野!」
「ん?」
だからこそ、俺には堪らない。
「……おやすみぃ」
「…おやすみ」
平静を装って、さっさと背を向けて、それでもま〜だ、しつこくからみついてくる視線を避けながら、どうにか階段を上り始めて。
「ったく」
さえちゃんの友達が言ってたことをふと、思い出した。
(あんまり甘やかしてもダメだからね? 一度頼ることを覚えると、もう際限がないから)
ああ、まったくもってその通り。
ったく、さえちゃん。
あんた…ほんっとに、ダメだなぁ。
──もっとも、本当にダメなのは、
あんな手を見抜けないほどにテンパっちゃったりとか、
そもそもそれがかわいいと思っちまう、俺なんだけどな。
「おはよう」
翌朝。
凛奈との毎朝恒例の勝負を終えて、リビングに入ってきた俺は席に座る。
テーブルにはすでに海己の作った朝食が並んでいて、みんなの口に入るのを待っている。
その"みんな"の中には、
「おはよう星野」
もちろんさえちゃんもいて。
「〜〜〜!」
「し〜ず〜、それやめて〜」
「〜〜〜〜〜!!」
いつものようにチンチン茶碗を叩く静とやり合っている姿は、これまたいつものようにまだ若干寝ぼけてはいるようだけど……、ったく、昨日のことなんて、何もなかったみたいにケロッとしている。
だからよかった、これなら大丈夫。
と、そう思えた…、
……んだけど。
「あ、航。ゴミ、ゴミ」
「ん?」
遅れて入ってきた凛奈が、すれ違いざまにぱっぱっと俺の頭を払う。
どうやらさっきバスケットコートで付いたらしい。
「おう、サンキュ」
と、礼を言って、凛奈も軽くひらひらと手を振って返して。
そんな感じで終わるそれは、いつもなら別になんでもないことだったんだけど。
「ちょっ……」
がたがたっと音を立てて、さえちゃんが立ち上がる。
……スルー、できないんだろうなあ……。
昨日の今日で、なんで自分だけ我慢? みたいな感じで。
何事かとあっけにとられる周りを余所に、こちらに突進してくる彼女を眺めながら、さて、いったいどうなだめるべきかと悩む俺。
そう、どことなく他人事のようにしていられたのもここまで。
冷静さを失ったさえちゃんが、ただでさえ寝起きでフラフラしてるその体をコントロールできるわけがなくて。
「ひゃ!」
「……え?」
倒れ込むさえちゃんに、
押し倒される俺がいて、
そして──
唇に、柔らかい感触。
固まる俺たち。
そして、
「なっ……えぇっ!?」
「ちゅー、した〜」
「しましたね」
「え、え? わたる?」
「あんたら……」
向こうから聞こえる外野の声(主に地獄のそこから響いてくるような最後の声に)に、上に覆い被さっているダメ教師をのけて、慌てて立ち上がる。
「ひぅ!」
なんか小さく悲鳴が聞こえた気もするけど、気にしない。
えーと、まず、だ。
断言するが、これは事故だ。
あくまで故意による出来事ではなかったのだと、俺は主張する。
……聞いてくれる人なんていそうにないけどな。
そんな予感に思わず一瞬天を仰いで、それからちらりと前を見る。
そこは予感通りの阿鼻叫喚……の一歩手前。
当然のごとく、さえちゃんは一人でパニクってるし、一瞬即発で飛びかかってきそうな目の色変えたみんなは、やっぱりまともに言い訳を聞いてくれそうにないし。
「……はぁ」
…っていうかさ。
いくらなんでもこれはないと思うんだよ。マンガじゃあるまいし。
せっかく昨日上手くまとまって、今日だってやっていけそう、と思ったのにさ。
俺、なんか悪いことしたか?
いや、しましたか、神様?
「……はぁ」
もう一度天を仰いでため息をついて、俺は決心する。
もう、ここはアレしかないよな。
「あ、そうだ! 俺今日、雅文と待ち合わせがあったんだ!!」
わざとらしく声を上げてダッシュ。瞬く間に外に飛び出る。
朝食には未練があるが、命には代えられない。
「ほ、ほしのの薄情者〜」
そんな声が聞こえてきた気もするが、もちろん足を止めるわけがない。
全速力で駆けながら、追いつかれる前に学園に着けるかとか、放課後どう言い訳をしようかとか、頭を悩ませて。
でも、なぜか俺の顔は、端から見ればきっと緩んでて。
──そしてまた、今日もドタバタの一日が始まる。
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