じゃばぁぁぁー ざぶぅぅん
「……ふぅぅ」
沢城凛奈のためいきがゆけむりと一緒に広いお風呂場に霧散していく。
こんなためいきをつけるのは、凛奈にとって長くて無価値な島の一日の中で、こうしてお湯に浸かっているひと時に限られる。
このふた月ほど、気を緩めると途端に襲い掛かってくる南の島特有の馴れ馴れしさやら余計なお節介がまとわりついてきて、それらを拒絶し続けている凛奈にとっては梅雨並みにこの上なく鬱陶しく感じられた。
それもこのお風呂の中では隔絶される。本当の意味でひとりになれる。 そう思える空間だった。
寝床とお風呂……『寮』という共同生活の巣にいながら共同生活を否定している凛奈にとって最低限必要とされるものだけを享受させてもらっている。
それもこれも、とある理由から一緒に住むはずだった父親の住まいには居たたまれなかったから飛び出した結果、最終的には「妥協」と呼ぶものだった。
「ひとりになりたいのに、ひとりにさせてくれやしない。ここの島の人ってほんと……」
ちょっと島を歩いているだけで、道行く人から必ず挨拶をされ、話したくもないのに話しかけられ、あまつさえアワビや昆布やするめとかを強引に渡してくるとか……
「ほんとありえない!」
ばしゃーん! 悪態ついて水面を叩く。 あがる水しぶきに“あいつ”の顔が浮かぶ。
強引に渡されるといえば…… 今日も(やっぱり“あいつの彼女”…なのかもしれない)海己の手から強引に渡された“あいつ”からの手紙。
いや、今日はちょっと違っていた。 どうしてか、なんとなく渋っていた海己の手から強引に奪い取った“あいつ”からの手紙。
自分の憤りとは裏腹に、“あいつ”からの手紙にドキドキ、グラグラさせられていることにはとうに気付いていた。
でも、肝心要なことは未だに書いてきていない。 それが一層失望を呼びながらも、明日の手紙には……と期待する自分に戸惑いも禁じ得なかった。
そして、今日の手紙にも、やっぱり肝心なことは書かれていなかった。
「どうして…どうして思い出してくれないのかなぁ……」
がらぁ〜っ! 不意に戸が開く音がして、長い黒髪が立ち込めていた湯気の向こうに見えた。
「何? 航と一緒に夜を明かしたあの雨の晩の出来事を?」 「うわっ!? わっ?! わぁぁぁぁっっ!!??」
突然の闖入者にパニクる凛奈。 しかし、当の闖入者の方はいたって冷静。
同性の凛奈から見ても見惚れる均整の取れたスタイルや豊満なバスト、その他もろもろも隠すどころか誇示するかのように堂々と入ってくる。
「大声出しなさんな。夜中に迷惑でしょうが」
悪びれる様子どころか騒ぐ凛奈を戒めるように上から物を言うのは、もちろん高見塚学園生徒会長兼つぐみ寮唯一人の最上級生である浅倉奈緒子であった。
対する凛奈は、堂々とされているがために却って自分の方が恥ずかしくなり、顎までお湯に浸かって両腕で胸を隠しつつ抗議する。
「迷惑はアンタでしょ!! まだあたしが入ってるのに、どうして入ってくんのよ!?」
「いいじゃない。鍵を掛け損ねてたあんたが悪いんだし、ここは寮生の共同のお風呂場なんだし。それにこんなに広いお風呂にひとりで入ってるなんて、淋しいじゃない」
「淋しいとか淋しくないとかそういうことじゃなくて、ちゃんと入る時間はそれぞれ決まってるでしょ!」
「お風呂と寝る以外は寮則も校則も守らないあんたに言われても説得力ないわね〜」 「ううう……」
自分が正論を言っているはずなのに、しれっと返され、どうしても言い負けてしまう。
口ではどうにも勝負になりそうもないことを、わずかな時間ながら凛奈は悟った。 ならば実力行使! ざばぁーーっ!!
「どうしてもアンタが出て行かないなら、あたしが出る!」
「まだ入ったばっかできちんと体も洗ってないんでしょ。いいからゆっくり一緒に入ろうじゃないのさ」 「なんでアンタと!!」
「つべこべ言うなっ!!」
キィーン…と響いた。 予想外に大きくなった声に、怒鳴られた凛奈はおろか奈緒子自身も少々驚いていた。
「とにかく、おとなしく入れ!」
奈緒子は凛奈の肩を無理矢理押さえつけて湯船に戻し、自分もかけ湯した後に凛奈の隣でお湯に身を沈めた。
「……ふぅぅ」
大きく息をついた奈緒子の顔をじっと見つめる凛奈。 その視線に気付いて奈緒子が満面の愛想笑いを浮かべる。
「あたしに何か言いたいことがあるのかしら?
例えば、どうしてそんなに美人なんですか…とか、肌が白くてとってもきれいですね…とか、私よりも大きくて形のいい胸で嫉妬しちゃいますぅ……とか」
「(ボソッ)確かに……はっ!?」
明らかな口撃を凛奈が慌てて視線を逸らして応じると、今度は薄く底意地悪そうな笑顔を浮かべて見せる。
「気になる“あいつ”とはどんな関係なんですか……とか?」 「っっ!!」
まさに『射抜く』とでも言うべき鋭い視線で凛奈が隣の黒髪美人を睨みつける。 そんな視線もどこ吹く風で受け止める奈緒子。
「どうなの?」 「……あがる……」 「のぼせた?」 「少しね」 「そっかぁ、航も罪な男ねぇ」
ざばぁぁっ!!! 再び立ち上がった凛奈が桜色に染まった肢体を更に真っ赤に染めて怒鳴った。
「その“のぼせた”じゃないし、“あいつ”は関係ないって!!」
しかし奈緒子はその様子を見て、勝ったとばかりにニンマリと笑い、そしてすぐに引き締めて問う。
「沢城凛奈、あんたこそ航とどういう関係なの?」 「話聞いてないの? “あいつ”とは関係なんてないっ!!」
「でも、“あいつ”からの手紙を海己の手から奪い取るほどに気になっているんでしょ?」 「〜〜〜っっ!!!」
「こう、グッとくるようなことでも書いてあったの?」 「ない! 何にもない!! 関係も何も、ないったらない!!」
数瞬の睨み合い…… バチバチと火花が見えそうなくらいにぶつかり合う視線。
しばらくそのままでいた二人であったが、まるで砂時計の砂が落ちるかのように、天井からの雫がお湯の上に落ちた。
それをきっかけに、奈緒子が二人の間に張り詰めていた緊張の空気を散らす。
「………ああ、そう」
「“あいつ”とは……関係なんて……ない」
四度、関係ない、と口にする凛奈。 でも、その眼差しは切なさと痛みを含んでいた。
奈緒子は凛奈の独白を今度は肯きもせず、でも目を逸らさずに黙って聞いた。
「“あいつ”が覚えていないから……、関係なんて、ないんだ」
ぱしゃ 奈緒子が右腕だけをお湯から出して、ぴっ…と指差す。
「お風呂の中まで着けてるそれって、か・な・り・大事なものなの?」
自分の鼻先を指されたものじゃないと気付いたきっかり2秒後、凛奈は慌てて左耳を手で隠した。 その手の中には赤い石で作られたピアスがあった。
「それ、航と関係あるものなの?」 「関係ないって言った。関わりたくないとも言った。
なのに、なんでアンタも“あいつ”もここの寮の連中も島の人たちも、みんなみんなあたしに構うのよ!」
今やピアスを隠そうとしているのか、耳を塞ごうとしているのか、ともあれ凛奈は頭を抱えながら湯船から飛び出した。
「逃げるの?」
お風呂場から出る戸に手を掛けつつも、奈緒子の声に足を止める。
「…一緒に、いたくない」
「それは、ここにいる限り無理ってもんじゃない」 「じゃあ、出て行く」
「それでも、“あいつ”は…航は諦めないよ。あんたをこのつぐみ寮の一員に迎えるまでは、しつこくしつこく食らいついていくよ」
今までとは違う奈緒子の真剣さを感じ取り、凛奈が振り返る。
「…なんで、そんなに“あいつ”のことを信頼してるのさ?」
「なんででしょうねぇ?」
またすぐにはぐらかすように、歌うように答える奈緒子。 それをまたキッと睨む凛奈。
その視線をかわすように、フッ…と微笑んだかと思うと、奈緒子がボソボソと呟いた。
「“あいつ”の諦めの悪さを、身をもって知っているから…かな?」 「え?」
その呟きを聞き逃した凛奈など無視して、奈緒子が一方的に決め付ける。
「“あいつ”はとことんまでやるよ。あんたが“ここにいたい”って言うまで、とことんね」
あの顔は勝利を確信している顔だ。
何がそうさせているのか、もはや凛奈も確信していた。
「……生徒…会長さん、だっけ?」 「なにかしら?」
「アンタはあたしにいてほしいの? それともいてほしくないの?」
凛奈にしてはよくできた意地の悪い質問だと思えた。
奈緒子は問われてからたっぷりと勿体をつけて、小首を傾げつつ答える。 めいっぱい彩られた生徒会長としての笑顔で。
「もちろん、沢城さんにはこのつぐみ寮にいてほしいわ」 「ウソツキ!」
ガラガラガラ…ピシャン!!
「ふぅ…、あともうちょいってとこか、あれは。航もがんばってるじゃない」
脱衣所からも凛奈が出て行ったことを確認した後、ようやく湯船から出る。
「それにしても……ウソツキ、か」
他に誰もいなくなった洗い場に立ち、湯気で曇った鏡を手で拭う。 その中に映る顔は随分と上気し、朱がさしていた。
「ちょっと“のぼせて”ムキになり過ぎたか。 ほんと、罪な男だね、航」
躊躇なくシャワーのコックを開いて、頭から水を浴びる。 顔に染まった朱を洗い落とすかのように。
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