「遅いですね」
「そうだな」
ここは衛宮家の門の前。
「衛宮士郎 衛宮ライダー 衛宮タイガー」と書かれたやたらめったら立派な表札の下に「間桐桜」「遠坂凛」「イリヤ」「セイバー」と書かれた標準サイズの表札が並べられてる門の前。
ちなみにイリヤとセイバーの表札に苗字がないのは二人とも色々理由をつけて「衛宮イリヤ」「衛宮セイバー」を名乗ろうとしたところを凛と桜に全力で阻止されたからだ。
その話は今回関係ないので割愛。
まあそんな門の脇に俺とライダーは立ち、人を待っている。
食材が足りなくなったので今日の買い物当番であるライダーと一緒に買いだしに行くところなのだが、家を出てもう十分近く門の脇にこうして立っているわけだ。
空は晴れ渡り、いい風が吹いてはいるからこうしているのも気分がいいものだが。
そんなことを考えていると玄関の扉が開く音が聞こえ、続いてぱたぱたとは知る足音が聞こえてくる。
「お待たせー」
いつものような元気な声でそういって、俺より小さなわが姉はこっちの方に駆け寄ってきた。
そして俺たちの前まで来ると「ごめんなさい、待たせちゃった?」とまるでデートに来た恋人のようなことを聞いてきた。
でも俺はそれに返事を返すことが出来ず、代わりにライダーが少し不機嫌そうに声を返す。
「イリヤスフィール。人を待たせているのだから準備はもう少し手早く済ませてください」
「しょうがないじゃない。これでも待たせちゃいけないと思って急いで出てきたのよ?」
「それでも、私と士郎が出てからかなりの時間が経っています。早くしないとタイムサービスが―――」
「ライダー、貴女もずいぶん所帯じみてきたわよね」
「今日の私は買い物当番の任についているのです。任務を受けた以上、最大限の成果をあげて見せるだけです。最近は野菜も高いのですから」
「いいよ、私お野菜嫌―い」
「好き嫌いしていると凛みたいな身体になりますよ」
「……わかった、がんばる」
ライダーの返事に続いて、二人がぽんぽんとそんなやり取りをしているけれど、俺はそれに参加できなかった。
いや、それは別に仲間はずれにされているとかそういうわけではなく。
「どうしたのですか?」
俺の様子に気づいたのか、ライダーが少し心配そうに聞いてくる。
俺が何も喋ろうとしないので、気になったのだろう。
見てみるとイリヤもなんだか心配そうな、不安そうな顔をしている。
いかんいかん。
とりあえず俺は軽く深呼吸して、心を落ち着けてから口を開いた。
「いや、ごめん。その、イリヤの服が普段と違うからさ」
そう、イリヤは普段着ているあの服ではなかった。
黒いパンストに、紫のシルクのミニスカート。
上は高そうな薄手の黒のタートルで、胸元には銀のネックレス
普段着ているものとは明らかに違うその服のせいか、イリヤの銀の髪と白い肌の色が普段にも増して映えて見えた。
そんな姿を見せられて思わず呆っとしてしまったわけだが、俺の答えを聞くとイリヤはにんまりと満面の笑みを浮かべた。
そしてスカートが翻しながらくるりと一周まわって見せ、俺の方に向き直る。
「どうかしら、おかしくない?」
「ああ、うん。可愛いよ」
『まるで雪の妖精のようだ』とか言う台詞も思いついたんだが、さすがに恥ずかしくて口には出せなかった。
それでも素直な気持ちでそう答えたのだが、どうやらイリヤは不満らしい。
「むー」
「……イリヤ?」
どうしたんだろう。
今何か変なことを言っただろうか。
そう思ってライダーの方を見てみるが、ライダーは待たされたことで気を悪くしているのか『我関さず』と言った風情で助けてくれそうにはない。
一応俺としては精一杯褒めたつもりだったのだが、イリヤはやっぱり機嫌が悪そうだった。
なんだか不満そうに頬を膨らませるその姿は子リスを髣髴とさせる。
うん、これくらいなら恥ずかしくないから言えるな。
ではなく。
「えーと、イリヤ?」
しょうがない。
「俺、何か変なこと言ったかな」
こういうときは本人に聞くしかない。
遠坂に言わせると俺は時々とんでもないことをサラッと言う時があるらしい。
自覚は無いけど、桜も同意していたからそうなのだろう。
ひょっとして今回もそんな感じだったのだろうか。
そう思ってイリヤに問いかけてみると、まだちょっと不機嫌そうな顔をしていたけどそれでもしっかり答えを返してくれた。
「……シロウ、『綺麗』って言ってくれないんだもん」
「あー、いや。その」
俯いて今度は足元の小石を蹴りながらそんなことを言うイリヤ。
あー、そういや藤ねえがオヤジに『可愛い』って言われて同じようなこと言ってたっけ。
あの時は馬鹿だなオヤジとか思ってたが、同じ立場に立ってみるとその気持ちがよくわかった。
確かにイリヤの気持ちはわからんでもない気はするが、さすがにこの外見だとどうしても『綺麗』というより『可愛い』と言う表現の方が先に来てしまう。
いや、可愛いと言うことに関しては掛け値なく正直にそう言えるんだが。まあ結構恥ずかしいけど。
同じ女性にフォローしてもらおうとライダーの方を見てみるが、相変わらず我関せずといった感じで助けてくれる様子は無い。
いやここで『綺麗』って言えば済む話なのかもしれないけど、それだとご機嫌を伺うためにお世辞言うみたいでなんだか嫌だし。
いや、確かに今俺はイリヤの機嫌を直してもらおうと思っているわけなんだけどそれでも。
そんな感じでどうしたものかと悩んでいると、やがてイリヤは俯いていた顔を起こして俺の方を向いてくれた。
「まあいいわ。シロウがほめてくれたことは事実だし」
「……いいのか?」
俺が何も出来ないでいるうちに機嫌を直してくれたイリヤに、少し不安に思ってそう聞き返す。
「うん。シロウはお世辞とかじゃなく、本心から『可愛い』って言ってくれたんでしょ?」
「あ、ああ。いつもと違ってびっくりした」
それは本当のことだったので、力強くうなずきながらそう言った。
イリヤは満足そうに笑顔を浮かべて言葉を続ける。
「次は『綺麗』って言わせてみせるんだから」
「あー、うん。楽しみにしてるよ」
何とか恥ずかしいのをこらえてそう答える。
空を見るとオヤジが『よくやった』とでも言いたそうにサムズアップしてるけどもう知らん。
なんか最近見習うべきじゃないかと思うこともあるけど、その考えからは全身全霊をもって目をそらすことにしている。
「でもライダーはいいわよねー」
「はい?」
今まで『我関せず』を貫いていたライダーは突然話しかけられ、さすがに少し慌てていた。
「ライダーはお化粧してないけど綺麗じゃない」
「何を言っているのですか。私のように背ばかり高い女が綺麗だなどと」
「背なんか関係ないわよ。リンやサクラ、それにセイバーだって標準以上だとは思うけど、ライダーは本当に『綺麗』って感じだもん」
攻撃の矛先は完全に俺からライダーに移ったらしく、ライダーは俺の方に助けるような視線を向けてくる。
しかし白銀の悪魔っ子は助けを求めることすら許さない。
「シロウもライダーは綺麗だって思うでしょ?」
「あ、うん。ライダーはかっこいいし綺麗だと思うぞ」
少し恥ずかしいが、ここで変にどもってしまうとまたライダーが落ち込むので、はっきりとそう答える。
ライダーはなぜか自分の容姿にコンプレックスを持っているらしいが、俺にしてみればどうしてかよくわからない。
ライダーは間違いなく綺麗だし、背が高いって言っても騒ぐほどじゃないと思う。
確かに俺よりちょっと高いが、最近俺も背が伸びてきたので追い越す日も近いだろう。
って言うか早く越したい。
とか俺がひとり思いめぐらせている間もイリヤの説得は続いている。
「これでお化粧までしたりしたらシロウだってメロメロよ?」
「お、おいイリヤ!」
慌ててイリヤに声をかけるが、一度発せられた言葉はもう戻らない。
イリヤは歓声を上げながら商店街へと向かう坂を駆け下りていく。
子ども扱いすると怒るし、時にはしっかりしたことを言うこともあるけどこういうところは本当に子供だと思う。
まあ、イリヤがそういう姿を見せてくれるのは嬉しい。
だから俺はイリヤに強く出ることができない。
「じゃあライダー、行こうか」
「は、はい」
とりあえず今は買い物だ。
六時からのタイムセールには間に合わないとな。
最近やけに高い野菜に思いを馳せながら、俺とライダーはイリヤの後を追った。
夜。
なんとなく目が覚めた。
「うーん……」
衛宮家の夜は静かだ。
少なくとも最近は静かだ。
敷地が広いと言うのもあるが、それ以前に周囲で騒音をあげるものがいないというのが原因である。
一度、暴走族が程近い場所でたむろしていたことがあったが、彼らの末路は惨憺たるものだった。
衛宮家の睡眠を妨げるものには死を。
確か魔術の神秘は隠匿するものとか言う言葉を聞いたことがあるが、睡眠を妨げられた怒りの前ではそんな大原則すらどっかに行ってしまうらしい。
まあ、全部終わった後に暗示をかけて記憶は操作していたらしいが。
とにかく、そんなわけで最近は静かだ。
聞こえる音と言えば、虫の声と遠くで響く野良犬の声ぐらい。
「喉、渇いたな……」
誰に言うとでもなくそうつぶやいて、寝床から出る。
そして、まだぼんやりした頭のまま台所へ。
つまみ食い防止のために我が家の冷蔵庫はそれはもう厳重に封じられているが、水道水を飲む分にはなんら問題ない。
コップに水を注ぎ、一気に飲み干す。
使い終わったコップは軽く流して脇に置いておく。
渇いた喉も落ち着いたのでもう一眠り……
「……あれ?」
居間を通って廊下に出ると、明かりが漏れている部屋があることに気がついた。
時計を見ると、二時半ちょっと前。
「なんだろ」
光の漏れているのは、客間の方だ。
明かりが漏れているので桜か遠坂あたりが魔術の実験をしているのかと思ったが、そういうわけではないらしい。
「ライダーの部屋か」
そう、ライダーの部屋だった。
ライダーが夜更かしと言うのも珍しい。しかも自分の部屋で。
この家で『ライダーが夜更かし』と言えば大抵の場合それは俺の部屋に来ようとしているときで、それはつまりどういうことはと言うとまあそれは言えない。
って言うか大抵そういう場合は遠坂か桜に見つかって大騒ぎになるのが定番だ。
外の騒音は許せないくせに自分たちの出す騒音はいいのかと思うのだが、そんなことは口には出せないっていうか出すと大抵巻き添えを食らって黙らされることになる。
ちなみに最近は騒ぎが起きるとイリヤが結界を張ってくれるので騒音が外に漏れることはないし、家が壊れることも減った。
「わたしはシロウのお姉ちゃんなんだから、これぐらい当然だよ」とはイリヤの弁だが、どうせなら争いを止めて欲しいと思うのだがどうか。
ちなみに、そんなときのセイバーはと言うと大抵俺の部屋で熟睡している。
最近のセイバーは生半可な物音じゃ起きなくなったっていうか、起きた場合は大抵ライダーと一緒に桜たちと争うことになる。
……平和なあのころに戻りたいと思うのは贅沢なんだろうか。
さておき、今日は静かな日だ。
そんでもって、ライダーの部屋からは明かりが漏れている。
とりあえず扉をノックしつつ声をかける。
「ライダー?」
「ししし士郎!? どうしたのですかこのような時間に」
返事があった。
明かりつけたまま寝てるんなら電気を消そうと思ったんだが、そういうわけではないらしい。
「いや、明かりついてるからどうしたのかと思って」
「なんでもありません!」
なんだか慌てた声とがさがさやる音。
「どうかしたのか? なんだか慌ててるみたいだけど」
「私はいつでも沈着冷静です。士郎こそこんな夜更けに何をしているんですか!」
「いや、俺は喉が渇いたから水を飲みに―――」
ずってーん。がらがちゃがちゃがちゃ。
俺がそこまで言ったら中で結構凄い音がした。
「どうしたんだ?」
慌てて部屋の中に飛び込んだ俺が見た物は。
部屋中に並ぶ化粧品と、寝巻き代わりのYシャツを羽織ったまま部屋のまん中でうつぶせに倒れているライダー。
まあつまり、俺に声をかけられて慌てて躓いて化粧品が並んでいる中に転んでしまったらしい。
なんか転んだ拍子にYシャツの裾が乱れて色々と目に毒な姿ではあるが、このまま見ているわけにも行かない。
「あー、その、なんだ。大丈夫か?」
「はい……」
なんとなく気まずい空気が漂う中、手を差し出すとライダーは顔をさすりながらも素直に立ち上がった。
部屋中に散乱していた化粧品をとりあえずひとところにまとめ、どうにか二人が座るスペースを確保してから腰を下ろす。
「で、どうしたんだいったい」
責める気はない。
ライダーは子供じゃないんだから、早く寝ろなどと言う気もない。
そもそもサーヴァントは寝なくてもなんら支障はない。
っていうか普通は寝ないものらしい。
それでも最近は俺たちの生活サイクルにあわせて眠るようにしてくれているわけだが。
まあとにかく、さすがにこの状況で何も聞かずに部屋に引っ込むわけにも行かないのでライダーに向かって問いかける。
ライダーは言いにくそうにしていたが、やがてゆっくりと口を開いてくれた。
「昼間の、イリヤスフィールの話を覚えていますか?」
「……えーと、化粧がどうこうとか言う話か?」
「はい」
そういえば昼間、そんな話をしていた。
あの後は結局普通に買い物に行き、八百屋のシゲさんとのカボチャの値段交渉が白熱してしまったのですっかり忘れていたが。
ちなみにシゲさんとの交渉結果は満足いくものだった。
基本的に商店街の人たちは我が家の女性陣に弱い。
そのために二人を連れて行ったわけではないが、安くしてもらえるチャンスを逃す気もない。
一家六人+最近頻度は減ったけど、それでもちょくちょく襲撃してくる虎を養うのは非常に大変なのだ。
「それでその、私も戯れに化粧の真似事をしてみようかと……」
ああ、なるほど。
そういえばそんなことを言っていたっけ。
あの時はライダーも興味ないみたいなことを言っていたけど、実際は興味があったのか もしれない。まあライダーだってれっきとした―――おまけに美人な女性なんだから何 にもおかしいことはない。
「それで、これか」
「はい」
そう言ってさっきまとめた化粧品を眺めるが、かなりの量がある。
なんに使うのかよくわからないけれど、何かのボトルやらコンパクトやらが山のように。
あと、口紅。
さすがに口紅の使い方ぐらいはわかるけど、それにしてもこの量は結構壮観だ。
「夕食後、ひそかにライガに相談したところこれだけ用意されまして」
「ああ、そういうことか」
藤ねえの祖父であり、この冬木で一大勢力を誇る藤村組組長の爺さんの豪快な笑い顔を思い浮かべて納得した。
あの爺さんは基本的に気前が良くて、特に我が家の女性陣にはやたらとプレゼントしたがる癖がある。
「にしてもこれはちょっとやりすぎだろう」
山と詰まれたコンパクトや瓶の向こう。
壁際にずらりと並ぶ口紅は、荒野に並ぶ無限の剣を連想させた。
って言うか口紅にしろその他のものにしろ、量が多すぎる。
部屋の隅にはまだ段ボール箱が何個か詰まれているが、おそらくはあの中も化粧品でいっぱいなんだろう。
化粧品店でも開業させるつもりかあの爺さんは。
「……まあ、いいや。それで、化粧を?」
「はい。してみようと思ったのですが―――」
それだけ言ってまた口ごもる。
「? してみればいいじゃないか」
「ええ、しかし……」
なんだか要領を得ない。
物は揃っているわけだし、後は実行するだけだと思うんだが。
「あ。ひょっとして俺、邪魔だったか?」
こっそり試そうと思ったのを邪魔してしまったのかと思い、そう言ってから慌てて席を立とうとしたのだが、ライダーの返答は違っていた。
「いえ、そういうわけではありません。わたし一人でも化粧は出来ませんでしたから」
「なんでさ」
ライダーは基本的に器用だ。
ちょっとずれているところはあるが、教えられたことは大抵すぐにこなせるようになる。
いや、料理は別として。
まあとにかく、そんなわけでライダーは手先も器用だ。
「えーと、化粧品の使い方が判らないとか?」
「いえ、雷画から化粧品をもらう際に手引書もいただきました」
「それなら……」
何も問題ないような気がするんだが。
ライダーが何を言いたいのかがわからず、しばらく首を傾げていたらハァ、と一つため息をついてから口を開いた。
「では士郎。化粧するときの手順を思い浮かべてください」
「俺、そんなに詳しいわけじゃないぞ」
「私とてそんなに詳しいわけではありません。ごく一般的な―――そうですね。例えば、口紅を塗るときのことでもいいです」
「ああ」
それならわかる。
当然のことながら自分で使ったことなんかないが、一応それぐらいはわかる。
と、言ってみても難しいプロセスがあるわけじゃない。
確か口紅をひねると先が出てきて、あとは鏡を見ながら―――
「あ」
「そうです。私は鏡を直視できない」
ライダーの真名はメデューサ。
神話に伝わるその最後は、鏡の盾で己が視線を封じられ、その首を切られたと言う。
それに鏡は古来より邪眼・魔眼の類のものに抗するために使用される。
制御不能の神域の魔眼、石化の魔眼キュベレイを持つライダーにとってそれは命取りになりかねない。
いや、でもちょっと待てよ?
「でもライダー、魔眼殺ししてるじゃないか」
そう。
遠坂が何処からか入手してきたその眼鏡はあらゆる邪眼の効果を遮断する。
だからこそ俺は今ライダーと向き合い、その宝石みたいな瞳を覗き込んでも平気でいられるわけで。
「魔眼殺しをしていても鏡は駄目なのか?」
「ええ、確かに士郎の言う通り私の魔眼はこの魔眼殺しで完全に封じられています」
「それなら……」
「そういう問題ではないのです。私は『鏡を覗くことはできない』。『覗かない』ではなく『覗くことが出来ない』のです」
ライダーは淡々と、ただ単に事実を告げるように言葉を続ける。
その言葉には何の感情も込められていない。
そしてそれはその表情も同じ。
何の感情の動きも見せない、ポーカーフェイス。
何のおかしいところもない、何の違和感も感じさせないライダー。
でも、俺にはそんなライダーの表情が哀しそうに見えてしょうがなかった。
「どうしようもないのか?」
「はい」
「そんな簡単に―――」
「士郎」
思わず声を荒げそうになったところでライダーに遮られる。
そして、ライダーは俺の口をその手でそっと押さえ、言葉を続けた。
「士郎が私やセイバー、そしてイリヤスフィールを桜たちと同じように、人間として扱ってもらえるのはとても嬉しい。しかし、わたしたちが魔術的な存在なことは紛れもない事実なのです。それを捻じ曲げようと言うのなら、それこそ聖杯の力でも使わなければ不可能です」
そこまで言って、俺が何も言う気がないのを確認するとライダーはそっと手を離した。
かすかにしっとりと汗ばんだ感触が俺の口の上から離れていく。
「話がずれましたね。まあ、そんなわけで鏡なしで化粧を試みたのですが、やはり上手くいかなかったのです」
それだけですよ、と言葉を結んで、ライダーは優しい笑みを浮かべた。
でも俺は、
俺はどうしても素直に納得することができなかった。
「どうしようもないのか?」
だからしつこく、こんなことを聞いてしまう。
ライダー自身はもういいと言っているのに。
ライダーも俺の気持ちがわかったのか、ちょっと困ったような顔をしている。
それはそうだろう。
本人が諦めると言っているのに、俺がただひたすら納得していないのだ。
わかっている。
これじゃあ駄々をこねる子供と大差ない。
それでも、
それでも俺はライダーが自分のしたいことを―――しかも『化粧をする』などというごく平凡なことが自分の意思とは無関係なところで出来なくなっていることが嫌だった。
「何か、いい方法がないか考えてみよう。なんなら桜や遠坂に―――」
「いえ、そこまで迷惑をかけるわけには行きません」
「でも」
三流魔術使いの俺には何も思いつかないけど、桜や遠坂は立派な魔術師だ。
何かいい案を出してくれるかもしれない。
「少なくとも、こんな夜更けに起こしてまで考えることではありませんよ」
そう言うライダーの笑顔はとても優しい笑顔で、だから余計に俺の無力さが身にしみた。
「ごめん」
「何故、士郎が謝るのですか?」
「いや、これだけ騒いだくせに何も出来なくって」
確かに、俺に非があるわけではないのかもしれない。
でも俺は自分の無力が申し訳なくて、俺は自然に謝っていた。
「士郎、待ってください」
「いや、いいんだ。慰めてくれなくても」
ライダーの気持ちは嬉しいけど、今一番哀しいのはライダーなんだ。
それなのに俺がライダーに慰められるなんて……
そう思っていたら、ライダーは呆れたように一つため息をついてから言葉を続けた。
「士郎、貴方は思い込むと人の話を聞こうとしない癖がある。それは改めた方がいいと思います」
「あ? ああ」
突然のライダーの指摘。
それは俺が予想だにしない言葉で、思わず間抜けな返事を返してしまう。
そんな俺を見てライダーはくす、とかすかに笑って言葉を続けた。
「士郎と話していて、一つ案が浮かびました」
「案って……」
「ええ。化粧の話です」
鏡を見ることが出来ないのだから化粧が出来ない。
さっきから悩んでいた問題。
「一つ試してみたい方法が思いつきました」
「本当か?」
自分の無力さに打ちひしがれたときにそう言われ、思わず声が弾んでしまう。
「士郎にも手伝ってもらわなければいけないのですが、お願いできますか?」
「ああ、もちろん!」
だから俺は、ライダーの問いには二つ返事でそう答えた。
「では、お願いします」
「……本気で?」
「はい。よろしくお願いします」
さっきは意気込んでああ答えた俺だが、思わず問い返してしまった。
しかしライダーはあくまで変わらず、真剣な表情でそう答える。
場所はさっきと同じ、ライダーの部屋。
そりゃそうだ。さっきライダーに返事をしてから一分ほどしかったっていない。
俺の目の前にはライダーが座り、ライダーの前には俺が座っている。
互いに正座。
そこそこの広さがある和室に、正座して向かい合う男女が一組。他には誰もいない。
まるでお見合いのようなシチュエーションだが、もちろんそうではない。
その証拠にライダーはさっきと変わらず寝巻き代わりのYシャツ一枚だし、俺も寝巻きに使っているスウェットだ。
こんな格好で見合いするやつはいないだろう。
いや、そうじゃなくて。
「ライダー、本当にやるのか?」
「はい。士郎も先ほど快諾してくれたではありませんか」
「まあ、そうなんだけど……」
俺の目の前には、いつもどおりのライダー。
その顔には魔眼殺し。
そしてその両手は両脇にまっすぐに下ろされている。
ライダーの目の前には俺、衛宮士郎。
その左手はひざの上で握り締められ、右手にはこの秋の新色、多彩な色と輝きを放つニューリップ。
いや、この間見たテレビのコマーシャルを思い出している場合ではなく。
まあなんだ。つまり俺がライダーを化粧することになった。
「私が鏡を見て確認することが不可能な以上、他の人間に化粧してもらうしかないでしょう。そしてこの部屋には今、私のほかには士郎しかいない。したがって士郎が化粧を行うしかない。完璧な論理ではないですか」
いや。確かに論理は通っているけどまだ問題がある気がするのですが。
口紅を握った俺の右手はじっとりと汗ばみ、ともすると手が滑って口紅を落としてしまいそうだった。
「何を躊躇しているのです。普段あんなに綺麗に色塗りをしているではないですか」
「いや、それプラモだし」
「色を塗ることに変わりはないでしょう。幸いにも塗る色はあの時と同じ赤ですし」
いや、そう自信満々に言われても。
誰がどう考えてもHGUC 1/144 Gアーマーのシールド部分を塗るとのライダーの唇に口紅を塗ると言うのはあまりにかけ離れた行為だと思うのですがどうですかお客さん。
プラモデルは所詮モノだ。
色塗りを失敗したのなら、修正すればいい。
でも、相手はライダーなんだ。
誰も否定することなんか出来ないだろう、神話の時代に神すら魅了したと言うその美しい顔に、俺ごときが筆を入れるなんて。
いや、この場合筆じゃなくて口紅だけどそこは問題ではなく。
俺に、そんなことが、許されるのだろうか。
この俺に。
神でも悪魔でもない、何においても半人前な、ただ投影魔術を使えると言うだけの、半人前の魔術使い風情にそんなことが―――
「士郎」
いつまでも思い悩むばかりで動こうとしない俺に痺れを切らせたのか、ライダーはこちらににじり寄ってきた。
距離がそんなに離れてないからか、立ち上がったりせずに半ば四つんばいになるような体制で。
その動きを例えるならば、それはまるでしなやかな女豹のようでっていうか。
「ライダー、ちょっと。ちょっと待った!」
さっきも言ったとおり、ライダーは寝巻き代わりYシャツを一枚着ているだけだ。
しかも今日は自室だからか、第三ボタンぐらいまでは外してらっしゃる。
最近ようやく見慣れてきたのでそんなに意識しないで済むようになってきたが、それでもそんでもって、そんな格好で四つんばいになられてにじり寄られると。
まあその、なんだ。
胸元からその中が覗けてしまって、豊かな上に形の良いその二つのふくらみが見事に俺の眼に焼き付いてって言うかライダーは止まる気がないらしい。
色々と俺に見せ付けるようにゆっくりとこちらににじり寄って、俺の眼前までたどり着いた。
「さあ、士郎―――お願いします」
目前まで迫っていたライダーからは香水なのか何なのかいい香りがして、なんだか息遣いまで感じられるようで俺はまるで落ち着かない。
「さあ―――」
そしてライダーは、俺の右手に己が手を添えてゆっくりと導いていく。
その目的地は、もちろんライダーの唇。
直に触れたわけではないと言うのに、口紅を通してライダーの唇の柔らかさを感じる。
「お願いします」
そう繰り返してから、ライダーは自らの舌で唇をゆっくりと湿らせた。
その舌の動きまでが艶かしく、酷く魅力的なものに見えて。
俺はライダーを――――
『いかん!』
ライダーを抱きしめそうになった。
それはいかん。
ライダーにはそんなつもりなんか無く、ただ俺に化粧をしてもらいたいだけだと言うのに。
いかんいかん。
でもこの状況もいかん。
なんか気がついてみれば、ライダーに押し倒される寸前みたいな体制になっている。
こんな状況ではさすがにちょっと色々我慢できない可能性がある。
今だってちょっと目を下げればシャツの隙間から―――
「だから駄目だって」
「士郎?」
「ああ、いや。なんでもない」
思わず声に出してしまって、ライダーに気づかれそうになってしまった。
「どうしたのですか? 士郎」
「いや、大丈夫だ」
心配そうに声をかけてくるライダーにそう答え、右手の口紅をしっかりと握りなおす。
そうだ、衛宮士郎。
お前は半人前の魔術使いなのだから、あれもこれもと全てのことを考えることなどできはしない。
するべきことはただ一つ。
『ライダーの唇に口紅を塗る』
そう、ただそれだけだ。
雑念を殺せ。
考えることに意味は無い。
いくら思考しようと、衛宮士郎に化粧の心得などあるわけが無い。
しかしこの手に在る物は何だ。
それは口紅。
己が身を削り、女性の唇を美しく見せるために存在するもの。
その口紅が身を削る相手として、俺の目の前にいる女性はこの上ないと言っていいほど申し分の無い相手のはずだ。
ならば俺に技術は必要ない。
そうと決まればこの口紅には用は無い。
右手の力を抜くと、その中にあった口紅は床に落ちる。
「士郎?」
ライダーが怪訝な顔をしているが、今の俺にはその疑問に答えている余裕は無い
俺の頭の中でガチンガチンと音を立てて撃鉄が上がる。
そして俺は決められた言葉をその口から発する。
「投影、開始(トレース・オン)―――」
創造の理念を鑑定し、
基本となる骨子を想定し、
構成された材質を複製し、
制作に及ぶ技術を模倣し、
成長に至る経験に共感し、
蓄積された年月を再現し、
あらゆる工程を凌駕し尽くし――――
ここに、幻想を結び剣と成す――――!
いや、剣じゃないけど。
何はともあれ俺の手の中には、一本の口紅が存在していた。
そしてその口紅は、己が本分を果たすためにそれにこめられた製作者の意思を汲み取り、鮮やかに動き出す。
数瞬の間口紅は踊るようにライダーの唇をなぞり、やがて最後の一塗りを終えると同時に粉々に砕け、風に溶けていく。
久しぶりの投影は、剣で無かったにもかかわらず実にうまくいった。
それでもやはり無理があったらしく、全身には神経が切断されるような痛みが走っていた。
「士郎!?」
心配そうなライダーの声に答えようとするが、うまくいかない。
ええと、声ってどうやって出せばいいんだっけ。
「―――ぅあ……あぁ―――」
千切れ飛びそうな思考をまとめ、何とか声を出す。
だめだ。声は出るけど言葉は意味を成さない。
それもそのはず。無理な投影でどこかが壊れたのか、口の中には血がいっぱいだった。
吐き出したくなるが、なんとか飲み込む。
吐き出すわけにはいかない。血の汚れはなかなか落ちないのだ。
今月はって言うか今月も家計がピンチなんだから、こんなところで余計な出費を増やすわけにはいかない。
そこまでしたところで、俺の体から力が抜けて床へと倒れ伏す。
「士郎!」
ともすれば途切れそうになる意識を振り絞っていると、ライダーの心配そうな声が聞こえる。
「ぁ―――」
「喋らないでください。今布団を敷きます」
そう行ってライダーは当たりにあった化粧品をてきぱきと片付け、押入れから布団を引っ張り出して手際よく敷く。
そして「失礼します」と声をかけてから俺を抱き上げて―――
「ライダー?」
「喋らないでください。今の貴方は魔術の行使により心身ともに疲弊しきっています」
厳しい口調でそう言い、俺を布団の上へ静かに横たえる。
「全く、いつもサクラやリンに言われているではないですか。貴方の魔術は異端でありその心身に多大な負担をかけるのですから、そう軽々しく使うものではないのです」
そう言ってライダーは布団の横に座り、
そのまま俺に口づけた。
「―――っ!?」
あまつさえ舌を入れてきてその長い舌は俺の口の中を舐りつくした。
それはもう満遍なく容赦なく抜け目なく微塵の妥協もなく隅々まで。
俺の口内にはライダーの唾液が満ち、その中をライダーの舌が動き回っている。
「――――――っっ!!??」
ちょっとこれはまずいから動いて抜け出さなきゃと思ってのたうつんだけど力が入らない。
いやその、魔術の行使がどうとか言うよりなんと言うか単純に別な理由で力が入らなくて。
それでもやがてライダーの舌はその貪欲な動きをやめ、俺から離れていく。
俺の唇とライダーの唇の間に銀の橋がかかり、ぷつんと途切れた。
「あの、ライダー?」
ライダーのおかげと言っていいのかなんなのか、口の中どころか喉のほうにまでこびりついていた血は残らず綺麗になめ取られ、やっと出るようになった声でライダーの名を呼ぶと彼女はにっこりと笑った。
「士郎が無茶をすることはあまり望ましくありません」
そう言った後に、先ほどまで俺の中にあった舌を使って自分の唇をぺろりと舐める。
その動きは艶かしく、唇には俺がさした紅の色がついて普段にも増して美しく見えた。
「それでも、私のためにここまでしてくれたと言うことに関しては嬉しく思います」
「いやあの、ライダーさん?」
ライダーに声をかけるが、その動きを止めようとはしない。
ああ、説明をしていなかった。
ライダーは今何をしているのかと言うと、敷布団の上に横たわる俺のさらに上にまたがろうとしていた。
っていうかまたがった。
「らいだー、なにを―――」
口の中がからからに乾いている。
さっきあれだけライダーの唾液を味わったと言うのに、もう何の水分も残っていない。
それでも何とかそう問いかけると、ライダーは酒に酔ったときのように頬をほんのりと赤く染めて、潤んだ瞳をして俺の問いに答えた。
「士郎の魔力は枯渇しています。早急にそれを供給する必要があります」
「あの、それは」
もうわかりきっていることだけれど、俺はそう聞いた。
そんな俺を見てライダーはくすりと笑い、一言一句聞き漏らさすことのないようにと、はっきりとした口調で俺に答えてくれる。
「士郎が、思っている通りのことですよ―――」
そしてライダーはその腰を上げ、
「ちょっと待ちなさいっ!」
部屋のふすまが吹き飛ばされて、
「ライダー、またあなた先輩と!」
ふすまを吹き飛ばした遠坂の後ろから桜が飛び出てきて。
「士郎、あんたそこから離れなさい」
「先輩、今すぐそこから離れてください」
二人に同時にそんなことを言われた後に。
「えい」
ライダーはすばやく俺のズボンをずらすとその腰を下ろした。
ぬる。
「うぁっ」
うめく俺。
「「ああああああああぁっ!!!」」
叫ぶ魔女っ子シスターズ。
「ああすいませんさくらたちのこえにおどろいてしまってつい」
果てしないまでの棒読みでそう答えるライダー。
いやもうなんだ。
ごめん説明できません。
無理無理無理無理無理。
「ライダー、何してるんですか!」
「ただたんにしろうにまりょくのほきゅうをしているだけですやましいことはなにもありませんよ」
「そんな棒読みで行っても説得力なんて欠片もないわよ!」
「しょうがないではないですか。何はともあれ今の士郎には魔力が必要なのです」
「それならわたしだって―――」
「桜?」
なんか色々聞こえるけど、もう何もよくわからない。
段々と周囲の様子に気を配ることが出来なくなってくる。
そしてやがて、桜に続いて遠坂までごそごそやってるのをかすかに見ながら、俺の意識は真っ白に染まって行った。
えぴろーぐ
次の日の朝、起きてみると俺の髪の毛は真っ白だった。
そりゃあもうアイツみたいに。
別に何か持っていかれたと言うわけではなく、むしろ体内に色々入ってきたり出て行ったり色々あってこんなになったみたいな気がする。
ちなみに俺の後ろは色々凄いことになっているが見ちゃいけない。
ちょっと見たい気がするけど見ちゃいけない。
もう無理だからさすがに。
とりあえずセイバーとイリヤが起きてくる前にこの髪何とかしないとなあ。
魔力は満ちたけど今ひとつ力の入らない体でそう思った。
えぴろーぐその2
「セイバーったら、ぜんぜん気がつかなかったの?」
「不覚でした……」
心底不覚そうなセイバー。
これ以上ないぐらいぐっすりと眠っていたセイバーは昨日の騒ぎに気づかなかったらしい。
ちなみに何が不覚なのかは秘密だ。
主を守れなかった自分がふがいないと思っていることにしておくのが大人の対応というものだ。
「ところで、ここにライガから貰った化粧道具があるんだけど」
「ほう」
士郎の受難は少なくとももう一回ぐらいは続くっぽい。
|